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俺の人生このままで終わるのか? つまらないなぁ。

回答数回答 1
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けっして裕福ではない家庭に次男として生まれ早53年。
高卒後に東京へ出て調理師の道へ。が、20代前半に調理師試験を受けに行く途中でバイク事故にあいそのまま8ケ月入院。
退院するも足に若干の後遺症が出て調理師は断念。帰省し大企業へ運良く?転職。その後今度は兄が交通事故で他界。繰り上げ長男になってしまう。
これが人生の分かれ目だった気がする。田舎なので長男は親と同居するのがあたり前の雰囲気。
その後結婚し、不妊治療ではあるが2子を授かる。本社東京へ転勤。そしてあの3.11東日本大地震にあう。地元は海の近く、TVでは8m超えの津波警報。
夜に何とか家族の無地を確認。それから幾度とない余震。本社勤務や地震のストレスからか適用障害となり4ケ月の休職。休職開けは地元へ帰して貰った。
そして現在に至る。

今までも良くは無かったが、実父との関係が今一番最悪。嫁も舅の間も同様に悪い。
昔の人と言った感じで、自分が一番、悪いのはみんな人のせいと言ったお山の大将。
男のくせに言ったことを守らない。でも短気で怒鳴る。全く好きになれない人。
そう言えば子供の頃から、この家に生まれて来なければ良かったなぁと思う時があった。そして死ぐのが怖いとも。(今の怖い)
この父と全くうまくやって行く自信がない。いや最近はうまくやろうとも思っていない。
もう、一緒に飯も食いたくないし、当然話もしたくもないし、顔もみたくない。
これから老いて(今80歳)介護などを考えるとぞっとする。正直したくない。する気になれない。

こんな考え方をしている自分が好きではないが、どうしようもない。
俺も健康寿命まで、あと20年足らず。
何かつまらない人生だったなぁ、これからホッと出来る毎日は何年後に来るのかなぁ?、その時俺は何歳になってしまっているのだろう。

俺って良い人間でないですよね?

もっと大切にしたいと思える父親が欲しかった。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当はオヤジさんの問題じゃないんです。

ウソだろ、ちげーよ。マジかよって思うかもしれないですが、本当です。
もちろん、オヤジさんも悪いんですよ。
でも、どっちもどっちだったりするもので。
だいたい男だったら父親とばちばちぶつかり合うものです。
お互いの男の我というかねぇ。
どっちも引かないのが争いのタネになる。
いい方法は、自分を生きることです。
オヤジはオヤジ。年十年生きても自分ではない。親父さんの人生をやってきた。そして、今日もオヤジさんはオヤジさんの半径数メートル以内の酸素を吸って、自分のしたいことをしている。
アナタも同じ。
今後も同じ。
人が人を問題にするのは相手にも問題はありますが、本当はそれを意識して問題にしている時と場所は、その時、そこで自分の頭の中。マインドわーるど。
今目の前にいないオヤジさんを相手にしておられるでしょう。
いたとしても、今までの過去データ越しのオヤジさんをとりあつかっているでしょう。
それらはみんな自分の中のお父さんに対する個人イメージ。自己内想念。
オヤジさんに出会っていながら、本当は出会っていない状態なのです。
なぜならば、本人のいないところで独り相撲していることがほとんどでしょう。
仏教的には顛倒夢想。
本人ならざるものを本人のいないところで勝手に相手にしていたずらに心を疲弊させている生き方をあなた自身が!自身にさせているということなのです。ここ大事。
だから、本当にあなたが向き合うべき相手は父親ではなく、自己。
この自己が明らかにならないと人間は一生自分の想いに振り回されながら生きていくのです。
自分を生きる。
そして、自分が人を意識してその意識した負の想いに苦しまなくなる生き方をする。
自身のディスプレイに映し出された自身の相手への想念はどこまでいってもあなた自身の心が作り出したあなた独自の想念でしかないのですから。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
会っていない時は、考えず何の気持ちもありません。
いざ、顔を見ると嫌なことばかり思い出し、気にいらなくなります。
なので、顔を見ても話しもしません。一緒に食事をしなければならない時は早く食べてその場から離れます。と決して楽しいとは言えない状況です。これがこのまま続くのかと思うとガッカリします。
でも、これも言われるように、男性同士だから仕方のないことかの知れませんね。

でも、尊敬できる父が欲しかった。

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