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生きることの虚しさについて

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有り難し有り難し 28

生きることに虚しさを感じます。頑張っている人をどこか冷めた目で見てしまいます。

「どうせいつか死ぬのに、何をそんなに必死になって頑張る必要があるのか」という疑問を抱いてしまいます。

人間は、生まれた瞬間から頑張らないと生きていけないという宿命を背負わされていると考えていて、それは理不尽なことだとも思っています。

自分の命も人との繋がりも永遠のものではないし、頑張っても報われないけれど頑張らないと生きていけない理不尽なこの世の中で、虚しさに支配されずに生きるにはどうしたらよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その問いは真理からの呼びかけ

ご相談拝読しました。

生きることに虚しさを感じ、「どうせいつか死ぬのに、何をそんなに必死になって頑張る必要があるのか」と問うことは本当に大事なことです。

なぜならば誰もがその問いを抱えながらも、「そんなこと考えたってしょうがないじゃないか」とごまかしてしまうからです。

今を楽しく過ごせばいいじゃないか。過去を切り捨て、未来に目をふせ…そうやって今をごまかしていく。
でも上記の問いがそこにあり、解決しない限りは本当の満足はないのだと思います。

私たちは望んで生まれて来たわけではありませんね。生まれながらにいただいた、その後の人生の大部分を決めてしまう様な境遇も自分で選んだわけではありませんね。

言うならば勝手にこの世に人間として、この私として、放り出されたのです。その視点だけで留まってしまうならば「勝手に生みやがって」という姿勢しか生じません。限りなく受動的な態度です。それは虚しさを抱えます。

望んだわけではない、選んだわけでもない。しかしこれが私だ。

「私は生まれたいと願ったのだ」

そのように自分のいのちのあり方を受け止めたお坊さんが過去にいました。その姿勢は能動的であり、主体的です。

一切はいただいたご縁です。私には何の責任もありません。それはそれで救いではあります。私には何の責任もないのですから。

しかしそれだけでは虚しさを超えていかない。

何の責任もないところに、あえて主体的・能動的に責任を見出し引き受けていく。そこにもう一つの救いがあります。

はからずも私がこの時代この場所にこうして生まれたという事実に、生命誕生以来・宇宙誕生以来の限りない歴史からの促しと、いのちの願いを見出し引き受けていく。

私が私でよかった。これが私の人生だ。そう頷けるあなた自身に目覚めて欲しい。

それが、あなたが感じている問いからの呼びかけです。それが真理からの呼びかけなのです。その真理を私たちは仏様と讃え、仏法としていただきます。

その問いは不安・虚しさ・いらだちなど様々な感情という形をとって、真理っがあなたにはたらきかけているものです。

その問いの客観的な答えはありません。あなた自身が主観的・主体的に証していくものです。

さあ、ともに仏法にあなた自身を学んでみませんか?

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

質問にお答えいただきありがとうございます。

自分は無責任にこの世に産み落とされたという意識が強いので、私が私でよかったと思える境地に至るまではまだ時間がかかりそうですが、真理からの呼びかけに対して自分なりの意味や答えを見出だせるように精進していきたいと思います。

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