何をしても虚しいです回答受付中
何事もなく生きて来ましたが、20代半ばで統合失調症を発症し、20年近く療養生活をしています。僕の発症と同時期に母もパニック障害になり、親子2人きりで支え合いながら暮らして来ました。
時間をかけて僕は快方に向かいましたが、母は高齢に差し掛かり、闘病と共に老いから来る体の不調にも今苛まれています。
母を支えながら僕も努力して来ましたが、病気の影響は根深く、働ける体にまでは回復しませんでした。
制度を利用して何とか暮らせていますが貯蓄はなく、闘病から様々な縁も切れ、自身が40代に入る頃から先が暗い人生を意識する様になりました。
いつ何があっても不思議ではない年齢の母を支え続けながら、母を看取るまでが自分の人生の役割であり、その先の人生は絶ってしまおうと決意しています。
その考えは僕の中であまり不自然な事ではありませんでした。幼い頃から環境に恵まれず、10代から40歳から先の人生を想定していませんでした。
今40歳から3年が経ちました。想定外の人生を歩きながら、いつ逝ってもいい心境です。決して自分の人生は空虚なものばかりではありませんでした。母の大きな愛を感じながら、できる範囲の細やかな楽しみを許してくれました。僕は生きている事自体に喜びを感じながら過ごして来ました。
しかし幼い頃からの決心が揺らぐ事はありませんでした。余生を楽しむ様な気持ちで、今母の天寿を待ち続けています。
僕は他人の人生と自分の人生を比較した事がありません。余りにもかけ離れていました。母に尽くすだけの人生でした。もっと困難を抱えた人生もあるのかも知れません。でも、誰の人生も想像する事ができないのです。
この場で人生を説明した理由もはっきりとしません。生き続けたいという未練もありません。話せる場らしい、という感覚だけです。何を言って貰いたい、という言葉も求めていないのです。
ひたすら虚しい。それだけです。持病は今の医療では完治しません。医学の進歩にあまり進展がなければ、自身の寿命は平均で60代です。僕は遅かれ早かれ、体の限界が来る可能性があります。
お坊さんからの回答 1件
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頼る先にも、心休まる場所にもなればいいなと願っています。
プロフィールや今までの質問も読ませてもらいました。お母さんと一緒に歩いてこられたのですね。愛情を受けながら、支え合って。あなたの存在は、お母さんにも心強いことでしょうね。だからここまで生きてこられた。
あなたにも支えがあれば…そんなふうに思われることもあるでしょう。人生の歩み方、終え方、自分の人生ですから決めていかれたらいい。
ただ、こうして巡り合って辿り着いたハスノハです。いつでもお越しくださいね。繋がっていますし、あなたを想っています。
人間は一人で生きるには、あまりにも寂しい。だからこそ、繋がりを求めたくもなる。
何かあればいつでも、ハスノハに帰ってきたらいい。そんな場所が私にはあるのだと、頼る先にも、心休まる場所にもなればいいなと願っています。