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愛を疑ってしまいます

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彼氏と9ヶ月付き合っていますが、すぐに相手からの愛を疑ってしまいます。愛を疑うせいで、相手からの感謝の言葉が少なかったり、「会いたい」のような愛情表現が少ないと怒ってしまい、喧嘩になります。
喧嘩になって相手に謝られても、「どうせ本当は悪いと思ってないんだ」とか「自分を理解してくれてない」と考えて、相手の気持ちを素直に受け入れることができません。

相手に嫌われないかとか、捨てられないか、不安がいつもあります……。どうしたらこんな不安をなくせるのでしょうか。
彼氏とあまり喧嘩したくありません。喧嘩をするとさらに捨てられそうな気がしてしまって、悪循環に陥るんです……。悪化すると、いつか別れるくらいなら死にたいと思うこともあります。

自分に自信がないせいなのでしょうか。

私は親が小さい頃から仲が悪く、小・中学生でいじめられた経験もあります。そういった過去のせいで、自分に自信がなくて、こうなってしまっているのでしょうか。
どうしたら不安をなくせますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛をあなたが勘違いしている

「愛とは何でしょう」
愛を知らぬ愛に飢えた❝愛飢え男❞若き青年僧ウェテル(愛に❝飢ェてる❞)の悩みは、愛を疑うことであった。愛を知らぬ故に、愛の定義を誤っていたのである。
師はウェテルに答えた。
「オレがこうしているのも愛だ」
「こうして話を聞くことも愛だ」
「黙って存在していることも愛だ」
「愛でなんてないものすらない」
愛に飢えた青年ウェテルは、ハッとした。
「ああ、愛とはいわゆるテレビや映画で見るような愛ばかりが愛だと思っていた。そうではなかった。」
愛への求め先、網でのキャッチ先が変わった瞬間であった。
彼は人類共通の「渇き」をみた。
「顔こそみな違う姿こそみな違う。だが、みんな同じじゃないか。彼らが求めているものは皆、愛だ。」
成功、やさしさ、称賛、承認、厳しさ、理解、受容、恋愛、結婚、カタチは異なれどもみんな同じものを求めているんだ。
彼は求めが止んだ。
至る所に人々が愛を具現化したものに囲まれていることに気づいたからである。

OHザブトンよ 足が痛まない様に。
OHまくらよ 安らかに眠れるように
冷蔵庫 ものが痛まない様に
薬 痛みやケガな治るように
OH息をしている 息を吐いている
OH!この私を!あなたを生かしてくれるように。
自分がいかに小さな限定的な愛ばかり追って来たのかを恥じた
若き青年僧、ウェテルは愛飢え男坊主から、愛植え男僧侶に変わったのだ。
冷たい響きに聞こえた「あいうえお」が暖かな響きに感じた。
今日もウエテルは、照る照る坊主として、誰かの心を愛を飢え照る照るしているという。

結論 あなたが愛を植える人間でなくてどうして彼の心を射止められるというのか!!(゚д゚)
そんな 愛に飢えたあなたが愛にあふれるための坐禅会。毎週日曜午後三時。
TEL TELしてね。080 2065 9278 この世もあの世もアンノン寺まで。
法事の申し込みは0429 の 41ー5940 良いゴクヨー、あ、良いゴクヨーまで。

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有り難し
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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