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受け取りすぎてしまい…

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有り難し有り難し 14

こんにちは。度々御世話になっております。
いきなりで申し訳ないのですが、最近多くの人にはないようなものが自分にあると気付きました。気づいたことにより、気持ちが楽になったのですが、上手くコントロールが出来ません。
能力がどのようなものかと例を挙げてみますと、相手が何も言わないでも、その人から出る雰囲気や音、仕草や顔の微妙な動きからどんな事があったか分かります。感情がめらめらと見えない波のように出てきて、私の中に入ってきます。なので、周りの人が誰か大切な方を亡くされた時、その方にお会いすると、その方のショックな感情が入ってきてしまい、号泣しそうになるのです。ただでさえ、その方がお辛いのに、自分が泣くのはその方にとっては良くないと思い、必死でこらえるのですが、我慢できないときは、一旦トイレに行くふりをして人目のつかないところで声を殺し、号泣します。
また、初対面でお会いした方でも、パッとその方から良い感情の波が出ていると、信頼できる!と感じ、甘えてしまいます。ですが、その私の読みが当たり、本当に私を支えてくださったりします。このようなことが何度もあります。
後は、神社仏閣、特にお寺さんなどにお邪魔すると、慈悲深さのような物を感じてしまい、泣きたくなります。そのお寺さんによっては何時間も居座り、深い懐に安心し、良いものを沢山受け取りすぎてしまうせいか、大変失礼ながら寝てしまうのです。
お坊様の中には、このようなことに近い相談に乗ってくださる方もいらすとお聞きしました。なので、今回ご相談させて頂きました。また、霊などがみられる訳でないので、霊能者の方とはちょっと分野が違うと思いますし、信頼できるか見極めが大変かと思います。
この能力に振り回されるのは疲れましたが、誰か人の役に立つならこれ以上にない幸せです。
私は、このまま振り回され続けるのがお役目なのでしょうか?それとも、苦しみなくお役に立てるでしょうか?私はどうすれば良いでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私にも同じような感覚があります。それはチカラです。

私もその様な感覚が人より強いと感じます。
それは能力です。便利なものとして用いることです。
ホントは誰でも持っているのですが、気づかずにいるだけです。
人間の持っている感覚はすべて能力なのです。
上手に用いることで大きな人助けのはたらきになるでしょう。
高い感受性は必ず悟りに導く力になります。
何故ならば、センスが高いという事は自身の身心の作用や感覚にも敏感に読み取る力にもなるからです。たとえば坐禅をすると言ってもこれが無ければただいたずらにぼーっと座っているだけになります。あなたは自分の感覚や体感・感受作用に人間の見解が伴わないという事を見抜くことができれば、あらゆる人間的な見解から救われることでしょう。これをご覧になっている方もどうぞその力を上手に用いて仏教の悟りを求め、自身の安らぎを求めてください。
医者に行くと、やれハイセンシティブパーソンだとか病気・病人・ネガティブ項目扱いされてせっかくの能力を薬漬けにされて鈍感にされてしまいますからご注意ください。

この感覚はむしろホトケ・センシティブ・パーソンとでも名付けるべき特殊能力です。人の痛みが分かる。助けてあげたい。何とかしてあげたい。という救いの力に転ずるべきものです。
私も人の顔を見るだけで瞬時でその人の様子が伝わってきます。誤解なく、霊能力とか特殊な力というワケではなく空気感に敏感です。むしろ霊能力とかうそぶく人間はそういう能力が高いだけで、観察力・洞察力に優れているだけです。
誰にでもある能力なのですが、今の時代はみんな同じようなロボット平均人間つくる時代ですから、人より感覚が鋭いことでかえってこちらがダメージを受ける時代ですね。
だからこそ上手に用いて、仕事や人助け、人生のツールに活用すればよいでしょう。
私は坊さんなので、人のエゴにも敏感です。
声を聴くだけでその人のエゴレベル・自分可愛がりレベルが分かってしまいます。
その保身やエゴをちょっとチャンネル切り替えするべ人間は素晴らし存在になれるのですが、多くの人はエゴ・自分を可愛がるために救われがないのです。
相手のエゴを取り除くには、相手のエゴを読み取れないと、相手を導くべき心に導けません。
人間には誰にでもエゴがあります。
そのエゴも欲も怒りもハイセンスも活用次第でエネルギー・力になることを覚えてください。
決して自分を否定してはいけませんよ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ハイリィパーソンもそうですが、人類って少数者を劣っていると見なす傾向にありますよね(笑)
なので、自分を否定的に捉えていた時もありしたが、今は違います。努力し、この力をコントロールできるようになり、誰かを救う方法を考えようと思います。

追憶ですが、少数者を劣っていると見なす傾向とは、丹下さんも仰っていたように、平均的な人間を作ると仰っていたおられましたが、私もそのような経験があり、興味や趣味もみんな揃っているなか、私は、違うものが好きだったりすることを否定されて不愉快になった経験があるので、そういった視点から理解しました。なので、私は、いろんな価値観、文化を受け入れるようになりました。決して否定的な意味ではないのです。これをご覧の丹下さん、そして皆さんに誤解を招かないよう書かせて頂きました。そして、回答して下さった丹下さん、ありがとうのざいました。

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