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怒りが溜まっています。もっと軽く生きたい。

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心の中に怒りが溜まりまくっている。常に頭の中ぐじゃぐじゃ。たまに我慢が爆発してしまいます。

ほとんど主人のことなんですけど。
自分でも心の中では気持ちを切り換えないとと思い、戦っています。
主人が今までしたことが許せません。借金や浮気、出会い系サイトで遊ぶこと、子どもの貯金を使い果たした事や自分への暴言。
今はちゃんとしてくれています。私も主人への態度を改めたので。
私がこれからも主人をおだてながら暮らしたら沢山稼いできてくれて中の上くらいの生活はできます。正直、貧乏生活に耐えることはできないのでこの生活手放したくないです。
答えは分かってるんですけど苦しいです。

主人には私に苦労かけたなと思いながら暮らしてほしい。でも、見栄っ張りなので会社の人達には事実と全然違う話をして凄く良い旦那さんを見せていることに腹立ちます。というか自分でも自分のことをとても良い旦那さんだと思ってそう。都合の悪い事は全て忘れる人なので。

普段は、ぐじゃぐじゃ考えながらも表は文句言わずにちゃんと妻の仕事をしています。
たまに爆発してしまいます。
そしたら主人は途端に殻に閉じ籠ってしまい話し合いもできない。何も聞いてくれないずっとふて腐れてるとても面倒臭い状態になり、結局振り出しに戻ってしまいます。

私も何もかも忘れたいです。
好きなことだけして生きていきたいです。
幸せそうにいつもニコニコしている人が羨ましいです。

自分の中の怒りを全部消して、過去に捕らわれずに軽くなりたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

日々是無罪放免

当山の森にトリカブトが生えてますのでご希望でしたら郵送します。(嘘)
まずは旦那氏ねサイトに言ってこれでもかというくらいに書き込んできてください。そして世のクソ旦那にはもっと上がいることを知りましょう。
ホントにクソ旦那ですが、世の中の1500パーレベルのクソ旦那に比べて230%くらいのクソ旦那で良かったありがとう、クソ旦那と言いましょう。感謝は大事です。
それでは声に出していってみましょう。
「ありがとう。KUSO旦那。」
冗談はさておき、クソ旦那でもKUSOだけにコヤシぐらいには活用できるのです。
あなたは旦那をKUSOの角度でしかみてませんが、コヤシの角度で可能性を見出すことです。
一切は空相です。KUSOもコヤシに変えることが人生のチエです。
空とは人間の私的見解の無い事。ものにはどんなものも良い面も悪い面もあります。
掃除機だってゴミを吸う分ミクロのホコリを部屋中にまき散らしているともいえます。
車だって排気ガスを出します。
ATMだって電気を食うのです。
あなた自身の人間性向上のためにもATMの電源を注ぐためにも食べさせてあげてください。
私的な気持ちが強いから怒りが湧くのです。
必要最低限度の生活が守られるようになったら一度、停戦することです。
戦争やる人間ですらクリスマス停戦というのがあります。
本当は戦わんでいいのです。
要らないこと、愚かなことを人はやるのです。
何が要らんのか、何が愚かなのか。
あなたが苦しむからです。関係が悪化するからです。子供も親を見て嫌な気持ちになり、結婚する気が失せるからです。
ご主人はほんとにしょうもない人です。人として確実にアウトです。
ですが、責めても人は良くなりませんので、チェスや将棋で喩えると駒を進める方向を攻撃ではなく、堅実な守りに改めることです。
あなたが守るべきはお金と子供と家。
家にお金をきちんと全額入れてあなたからお小遣いを渡すようにすることです。
家の貯金用の公的な預金を作って、そのお金はあなたの家族全員が使うためのものとして、檀那が手を出せないように振込先として設定しましょう。
家族を守るため、子供の将来の為にです。
そのままどんどん使い込んでは老後も食べていけません。
仮に愛は無くともあなたは十分に尽くして来たのですから、ATMおじさんとして活用しない手はありません。(どんだけ愛ないんや)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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