現実と理想の狭間で
子どもながらに「私はこういう大人になりたい!」と思っていた、その頃抱いていた理想の大人に私はなれているのか?
理想は理想?なれているのかなれていないか?
残念ながらその頃の自分に「ちゃんとなれたよ!」とは言えません。
◯◯市は、義務教育の間の先生は、転勤があっても◯◯市外に転勤になることはありません。だから、もしまだ退職されていないなら、◯◯市内の学校にいらっしゃるだろうと思います。ですが、歳からして私が子どもの頃にいた先生方は定年を迎えている、と思われるからこそ、ここに記すことが出来るのですが…
もともと口数少ない、物静かな子どもで、以前こちらにも書かせていただいたように非常に悲惨なイジメにあっていた私。そんな私が「大人になったら、この先生に会いに行って、これだけは言いたい!」と強く思っていた先生のお話です。
小学校の卒業旅行の真夜中、家じゃないと寝られない私は、(女子児童の眠る)部屋で、体育座りをしてちょこんと座っていました。そしたら、ある男性教師がそーっと部屋に入ってきて、少し大人びてきている女子児童の胸に手を当てて、またそーっと部屋を出て行きました。
もちろん、私は終始無言で、固まってしまっていましたが、確実に、その男性教師とは目があっていて、これは勇気があっても何も言えなかったと思うのですが、その男性教師も私が誰かに話す訳がないと思ったからこそ何事もなかったかのような顔をして部屋を後にしたのでしょう、ということがありました。
何も言えぬまま中学生になりました。今だったら表沙汰になっていたかも知れないような、これぞ体罰教師!というような先生がいました。一度殴る蹴るが始まったら、生徒たちは凍りついて誰も何も言えない、誰も止めに入れないような先生で、その暴力に関しては皆が同じ思いを抱いていたでしょう。
でも私は、ちょっとそこ以外のことに問題を感じていました。少しだけ発達障害のある生徒が同じクラスにいて、その子を守る?守っている?つもりなのかも知れないですが、どう見ても逆に偏見を持って接しているのです。事ある毎に、私は「先生、それは…」と言いたい、言いたいと思っているのに言えず、その歯痒さ故「大人になったら、先生にこれだけは言うぞ!ぶつけてみるぞ!」と強く思っていました。
が…出来ないままでいます。
どうして私はこんなに弱いままなのでしょうか?
・仕事は資格より素質 ・鬱になろうが5才児ぐらい好奇心旺盛 ・順風満帆な人生より七転び八起きぐらいの人生がちょうどいい
職場で久しぶりに再会した人に「やっぱり~!」と言われることが苦痛
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自燈明 法燈明
拝読させて頂きました。
あなたが今抱えていらっしゃる昔の思い出や暗い闇はきっと皆さん抱えていらっしゃるように感じます。
とはいえ自分自身では心の底にいつもありますから消し去ることはできないことですよね。
もしもその先生にお会いする機会があれば一度ゆっくりとお話なさってみてもいいかもしれませんし、落ち着いてあなたのお気持ちをゆっくりとお伝えなさってみても良いかと思います。
そのようなことを触れて欲しくない、過去の過ちを消し去りたいと思う方々もいらっしゃるとは思います。
とはいえそのことを決して消し去ることはできないです。
タイミングにもよりますけれどもそのような機会が与えられるかどうかはわかりません、天の配剤です、巡り合わせですからね。
もしも言うことができなくても気にすることではありません。
神仏のみぞ知ることですからね。
どうぞ心穏やかにおおらかにお過ごしなさってくださいね。
誰しもが墓場まで持っていくような秘密のことがいくつかあるのですからね。
再度拝読させて頂きました。
なるほど、あなたがおっしゃるような究極の選択を私も小学生時代にありました。先生は絶対に言わないと言ったのに、気が付いたらみんなが知っていたこと、そして自分の顔が真っ赤になって本当に恥ずかしい思い、穴があったら入りたい思いをしたことを思い出します。
それ以来先生という職業の方々を信用しないようになりましたね、しばらくは。高校や大学に行ってもなかなか信用できませんでしたね。
であるならば、少なくとも自分は人から言われた大切なことは言わないように漏らさないようにしたいと心掛けました。信用して打ち明けてくれた人の信頼を裏切るような行いは自分は絶対にすまいと思いましたね。
人との信頼関係を築くことはとても大変な事です。ですが私達は誰しもが未熟者であることには変わりありません。ですから余計に人への思いやりやお互いを尊重し合いながら助け合っていくことが大切ですからね。
先生や警察でも或は国家も人を裏切り人を傷つける様な愚かな行いをします。だからこそ人の振り見て我が振り直せです。
自ら先ずは決して人を傷つける様な言動を慎むことは大事ですよね。
「自燈明 法燈明」
自らをともしびとして寄る辺として、仏様の教えや真理をともしびとして寄る辺として善き道を歩んで行きたいですね。
質問者からのお礼
Kousyo Kuuyo Azuma様、お久しぶりです。お返事ありがとうございます。
最近、小学4年生の女の子が、親からの虐待で命を落としました。もし、その女の子が学校でのアンケートで、親から暴力を受けている、助けて欲しい、と書かなければ、もう少し生きられたのかも知れません。
私は、その事件を知った時、自分の中に「もし先生に告白しなかったら」と思うことと、「もし先生にちゃんと言えていたら」と思うこと、両方の体験談があることに気付きました。
「もし先生に告白しなかったら」というのは、小学6年生の卒業を間近に控えていた頃のことです。卒業前に何か配られた用紙に、何かを書く、という作業をしていたら、担任の先生が「絶対誰にも言いませんから、小学生の間に何か辛い思いをしたことがある人は、用紙の裏に書いて下さい」と言われたので、それを信じて「(学年も担任も違う)◯◯さんに、お兄ちゃんからもらった大事なボールペンをとられて悲しかったです」と告白しました。
そしたら、(まだ卒業していない)数日後、突然、私の家に、その子とその親が来て、「うちの子に謝って下さい!」と怒鳴られました。私は、それまで一度も親にも誰にも話したことがなかったし、あの用紙の裏に書いた覚えしかない、そういうデリケートな告白をしたが為に、本当は全然悪いとは思っていない「ごめんなさい」を言わなきゃならない事態に陥りました。
絶対誰にも言わない。確かに先生はそう言ったのに…。
そして、「もし先生に告白していたら」というのは、これも誰にも言えなかった、言えずにいた辛い現実「(この中学で)イジメにあっているんです…」と、たった一度だけ、勇気を振り絞り担任の先生に相談しようと試みたのですが、「誰からですか?」「・・・」「言ってくれないと何も出来ません」「・・・」イジメている生徒たちの名前なんて言えない、言ったらもっとイジメがエスカレートするかも知れない…と思い、結局、打ち明けられなかった…そのままにしてしまったことで、最終的に自殺寸前まで追い詰められてしまいました。
先生からしたら、皆、良い子たち。先生に見つからない時、場所で私に対して酷いイジメを行いながら、先生の前では普通の振りが出来る生徒ばかりで…だから、先生が気付けない、察することが出来ないという状態でした。
本当に悪ぶっている子が、学年に1人いたのですが、その子からはイジメられたこともなく、でも、先生たちからしたら悪い子、悪い生徒。
私の通っていた中学校の校門の前に、帰る時間になるといわゆる暴走族が集結するような環境で、その唯一イジメなかった子は、その中に吸収されている生徒でした。
何故か、私はその暴走族の人たちから嫌われていなかったのか、帰る時には挨拶をしてくれていたりして…
私からしたら、彼らの方が優しく感じていました。何だか強面のくせにとても心がピュアな印象を受けていたのです。
イジメをするかしないかは、見た目じゃなく中身なんだな、と思いました。
でも、私は先生にイジメている生徒の名前が言えなくて、「もし先生に告白していたら」というか、その度胸があれば、こんなにイジメがエスカレートすることはなかっただろうと後悔する?みたいな気持ち?になったり、生涯、消えない程の深い心の傷をおうことはなかったような気がしています。
先生に告白した方がいいのか、告白しない方がいいのか…
どうしたら理不尽な結果にならずに済むのか…
イジメや虐待を、子どもが先生に告白する時の心境、不安といったら、ものすごいのです。
究極の選択なのです。
最後の手段なのです。
どうか今現在教育の現場にいる先生方に、察していただきたい。
それが難しいなら、これは私の希望でしかありませんが、全国に「駆け込み寺」があるといいなという願いを込めて、こちらに書かせていただきました。
身近な先生より、身近なお坊さまの方が、子どもたちももっと本音を話せるかも知れません…
何か良い案があったら、是非、お知恵を拝借したいものです。
Kousyo Kuuyo Azuma様、再びお返事ありがとうございます。
お返事を読む前に、思い付いたことを、また質問させていただきました。
いろいろ…いろいろ…考えさせられることがありますね…
Kousyo Kuuyo Azuma様のお返事を拝読して、またまたいろいろ考えさせられました。
そうですよね…
うーん…