「ながら念仏」ならぬ「ながら真言(宝号、題目)」は失礼?
いつもお世話になっております。
私の古巣、浄土宗の教えには「法然上人の厠念仏」の話が
伝えられています。
時間がなかったら、または思い立ったら、トイレで用を
足しながら、お風呂にかぽーんと浸かりながらお念仏しても
バチは当たらない、むしろ尊い、といった趣旨だったと思います。
ですがこれは「念仏」の場合であって、真言や陀羅尼、
偈頌や宝号はどうなのかしら?と疑問が浮かびました。
カップラーメンや煮炊きの番、
または体幹トレーニングで一定の姿勢をキープするのに、
ただ数えただけでは気が遠くなって続く気がしない!
そんな時に、
「のーまくーさーんまーんだーばーざらだーん…」
「なーむみょーうほーうれーんげーきょーう…」
などとお唱えしたら失礼でしょうか?
喉の鍛錬も兼ねたいので…
お知恵をお貸しいただければ幸いです。
発達障害があるが、他の患者が苦手、健常者さんに負担を強いる障害者が許せない、 医師の悪口を言う僧侶が許せない、選挙で体調崩す、医師を顎で使ったり「薬減らせ」とごねる患者に辟易 #薬は悪くない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝読させて頂きました。
浄土宗の私が申し上げるのもいかがかとは思いまくけれども…日々日常の生活や所作の中で仏様を念じることや仏様の教えをつまりお経をとなえることは、いついかなる時でも仏様に向き合うことであり、仏様が身近に感じられることであり、仏様の慈悲や智慧の光に包まれ照らされていることですからね、いついかなる時でもどこにいても何をしていても良いと思いますね。
それだけ心の中が清浄に保つことができるでしょうし、心の安寧の中に生きることができるのですからね。
悪しき邪念や我欲や三毒も限りなくゼロに近付きますからね。
仏様からご覧になれば私達の所業や一挙手一投足は全て些細なことでしかありません。そのような私達の生活の中で仏様との身近に感じる親縁を持つことはお念仏おとなえすることであり、ご真言をおとなえすることであり、お経をおとなえすることです。
庭を掃きながらゴミ拾いしながら寝ながらでもそれは仏様と共にあることですよね。
質問者からのお礼
【Kousyo Kuuyo Azuma 先生】
ご回答ありがとうございます。お経聴きながら筋トレすると捗るんですよ。
日常の生活動作の中でお経やお念仏を称えることって、そういうことだったんですね…
私にとっては当たり前すぎて、逆に蔑ろにしているんではないかとモヤついていたので
すっきり解決してよかったです。
ご追記ありがとうございます。
一緒にいるっていいですね。
やっぱり仏様って一切衆生の親だと
思うとですよ。