私が不幸なのはみんなのせい
ということでさんざん他の人を傷つけてしまい今体から血の汗があふれでています。本当に苦しむのしかないのはわかっています。苦しまなければなりません。この体を火に晒して懺悔しようと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
懺悔(さんげ)とは。
『よいでしょう。
苦しんでください。おおいに苦しめばいいと思います。
何を思ってそのようなことをおっしゃるのか分かりませんが
他の人を傷つけておいて、なおご自分をも傷つけて
せいせいしたいだけのようにしか思えません。
それを懺悔という言葉にすり替えているだけです。
この体を火に晒すなどと。
私たちは懺悔とはなにかということを
さんざんお経で唱えているんです。
その理屈だけでいうなら
自分を責めることを懺悔とは言わないと思います。
どうしても無理があるようにしか思えないんです。
人の幸福と自分の幸福を冀(こいねが)い
そのための実践を積むことを
懺悔と言うしかないと思うんです。
心から願えるようになるまで。
自分が悪いことをしたら
自分で自分を責めればいいと言って
せいせいすれば済むと思いますか?
つらいだけですよ。次に何もつながらない。
あなたは懺悔と称して
ご自分を責めているだけです。
いじめているだけです。
傷つけているだけです。
他の人を傷つける心理と
まったく
変わりません。
仏教では
それも「慢」のひとつに数えるでしょう。
「驕り」ということです。我々の苦しみの根本とされています。』
このような回答を期待されているかもしれませんが。
そもそもどうしてそんなに
いじめるのが好きなのでしょう。
やめられないのでしょう。
そこを見なくては。
人を責めてせいせいするのと
人から責められてせいせいするのと
自分で自分を責めるのと
心理的には
変わりませんよ。
それで何を生み出せるというのですか?
何を守ろうとするのですか。
そんな甘えを許さないような生き方で
いったい何がしたいのか。
なにがあなたをそうさせるのか。
どうかお聞かせください。
本当に懺悔したいなら。
ご自分を幸福にし
他をも幸福にする道を
どうか見つけていただきたいです。
『かくのごとく懺悔すれば必ず、仏祖の冥助(みょうじょ)あるなり。』
懺悔とは
あなた自身の幸せを願う”はたらき”のことを言うのだと。
あなたや人々をかげながら支えている”冥助”であると。
どうか信じてください。
ほんとうは、いつでもどこにでも備わっているもので
特別なことではまったくないのだと
私は信じています。
南無釈迦牟尼仏 合掌
ことの経緯
拝読させて頂きました。
「私が不幸なのはみんなのせい」かもしれませんし、「私が不幸なのは私のせい」かもしれません。両方かもしれません。
改めてゆっくりと今までのことを見つめ直してみませんか?もしかしたらそれ以外にも様々な原因や経緯やつながりがあるかもしれません。
今すぐ思いつかないことでも後々じっくりと見直してみたりその後の経緯や結果を見てみると以外なところが決定的な原因であったりするものです。
あわてずあせらずに改めて冷静になって見つめ直してみて、その中で自分自身の悪しき考えや行いがもとになっているならば素直なお気持ちで反省していきましょう。
それからでも遅くはないかと思いますよ。