宙ぶらりんな時の方向の定め方
こんにちは
IT業界にデザイナーとして20年近く身を置いていましたが、魂も身体もゴリゴリとすりへらし、ごまかしながらやってきましたが先日うつが悪化し休職しました。
休んでみて、いかに自分が心身を無視し、大脳だけを優先してほかをないがしろにしてきたのかようやく気づきました。
丁寧な生活と食べ物の大切さ、なにより身近にある自然にふれてこんなに細やかな美しい命であふれ癒されるものかと驚いています。
それからマインドフルネス瞑想やヨガ、薬も漢方を処方をしてもらい、心身を観察しているとお釈迦様を含め、東洋思想で言われていることがわかるなあ、と感じています。
このように病気になって得たものはすごくあるのですが、ようやく回復してきたものの、社会的にはとても宙ぶらりんな状態になっています。
これほど病を通して学んだのに、また元気になってIT業界で忙殺される環境にもどって日々に翻弄され自分を磨り潰すのはなにも学んでないのと同じではないか、と思うのです。
この業種でいる限り同業他社に転職したとしてもそんなに環境がかわるものでもないので・・・
なのでIT業界を去って、ほかの場所で人の役にたちそうな技能は沢山あるし、プラスなにかを身につけて組み合わせで新しいこともできるだろうな、とは思うのですが、
可能性がフラットになりすぎて、ああ、フリーランスもできるし、起業もできれば、自然環境生物関係、一次産業、趣味分野のメディア、企業のインハウス・・・あらゆる可能性があって、これいいよね!やりたいよね!という起爆力に欠けて何も決められません。
心はニュートラルで静かで平安になったもののどこにも進める気がしないのです。休職の区切りまであと1ヶ月半でそんなに悠長にしてもいられないですし。
少しづつ、試せることを試してみていますが、砂漠に放り出されたようなもので、北の景色を探っているけど実は南なのかも・・・とは言え南とも言い切れない・・・という感じなのです。
友人に話を聴くと、特にどこかを目指して歩いてきたわけではなくて、模索しているうちに点と点がつながって結果的に線になっていた、ということをよく聞きますし、
仏教では縁起ということを説かれていると思いますが、砂漠のど真ん中で、どこかに一歩踏み出して、そこから人生を紡ぐために、どういったふうに考えるのがよいでしょうか。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【難度海】渡りがたき海
”砂漠のど真ん中で”
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。『顕浄土真実教行証文類』(総序)
あなたのおっしゃる”砂漠のど真ん中で”という感覚を浄土真宗の親鸞さんは【難度海】(渡りがたき海)と表現されました。これは暴風雨の荒波に揉まれて…という話ではありません。雲ひとつない青空、心地よいそよ風、穏やかな波、しかし大海原のど真ん中で難破中ーーーみたいな。つまり、現在地もわからない、どっちに向いて進んでいけばいいのかもわからないという状況を表現しています。なんとなく現在あなたの置かれている状況に似ていますね。
”どこかに一歩踏み出して、そこから人生を紡ぐために、”
これこそ人生最大にして最重要のテーマでしょう。
これはココでチョチョイのチョイとレクチャーできる話ではありません。ただ、親鸞さんという人は、海を渡る大きな舟と向かうべき方向を定める光明があるぞ、心配するなと教えてくださいました。ここらへんが親鸞さんの残してくださったヒントだと思います。
質問者からのお礼
転落院様
ご返信ありがとうございます。
やはりそんなに簡単なことでは無いですよね。
ですが、お話いただいた親鸞さんの言葉をじっくり味わわせていただきました。
ひょっとしたらシノゴノ頭で考えずに、なんか陽がさして暖かそうなほうに向かえばいいのかも・・・そんな気もしてきました。
あるいはどの方向にすすもうが、北に行ったが最後南には行けないわけでもないし、必要なものはいつだって繋げられるのかもしれない。
なにかを選ぶことはなにかを捨てることではないのかもしれない。
大海で大船に乗って、方向すらわからないけど、光明だけはいつでもさしているから、いつだって現時点現在位置が目的地で、そもそもどこかに行く必要すらないのかもしれない。
色々なことを思いめぐらせました。
この、〜かもしれないという仮定の多様性すら一つに定められない、迷いがある、そういった部分もふくめ今の自分のありようを見つめてみたいと思います。
お坊様ありがとうございました。