仏教と神道
少し気になったので質問させてください。
私の家には、初詣で毎年参拝するお寺の厄除けの御札と、伊勢神宮で買った神棚をお祀りしています。
御札はリビングの南側の高い所、神棚は廊下の高い所にお祀りしています。
私は毎日出かける前、御札と神棚に手を合わせて神様や仏様にご挨拶をしてから行っています。
最近、神様や仏様が常に見守ってくださっていると実感しています。
そこで疑問に思ったのですが、仏教と神道と別の宗教の物をお祀りしているんですが、問題ないのでしょうか。
よく、お寺と神社と別々に買ったお守りを付けていると神様同士が喧嘩して良くないと聞くので気になりました。
私自身では問題ないと思っているのですが、どうなんでしょうか?お忙しいと思いますが、お答え頂けたら嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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【無縄自縛】縄など無いのに自縛する
"別々に買ったお守りを付けていると神様同士が喧嘩して良くない"
喧嘩するという事は、まだまだ煩悩がある証拠。
【六道】という仏教の理屈からいえば、もちろん神様のほうが人間よりもランクは上ですが、どちらかといえば仏様よりも人間側に近い存在として位置づけられています。
少なくとも、仏様は腹を立てたり罰を与えたりはしません。
ただし、あれこれいろんなご利益を期待して神仏を体よく利用しようとする信仰では、お守りの効果効能うんぬんよりも、結果として自業自得の道理ゆえにあまりよろしくはない事になるのかもしれませんね。
仏教とは本来、こういう疑問や心配からきれいさっぱりと開放されていく教えです。
お守りも御札も破魔矢も絵馬も、人の自然な祈りのシンボルとしては大いに結構なのですが、これらを持つことによってかえって不安が増えるというのも、ちょっと本末転倒ですね。
<追記>
”仏様が人間に近いという事を初めて知りました”
逆ですよー。
下から、地獄道・餓鬼道・修羅道・畜生道・人道・天道という、この6つの世界を行ったり来たりして苦しんでいることを【六道輪廻】といい、この無限ループから脱出することを【解脱】といいます。この解脱をした者のことを【仏】といい、解脱して仏になることを【成仏】といいます。
神様は天道という世界にいますので、まだ六道の無限ループの内側です。六道の中にいるということは、まだ【煩悩】が残っている状態であり、解脱するための【悟り】を開いておられません。ということは、神とて神なりの悩み苦しみがあり、我々のように時には怒りに取り憑かれて…という事もあり得るという事です。そういう意味で、神様はどちらかといえば人間側である、と説明させていただきました。
かまわないでしょう。
仏様と神様がけんかしてなどと言われるようになったのは、明治の神仏分離令からでしょう。それ以前は神仏習合が日本の宗教の在り方でした。寺の中にも神棚や神社があり、また逆に神社にも神宮寺といって寺があったりしました。一般のおうちで仏壇の上に神棚を祭るのはその名残です。また仏教教義的には転落院さんがいうとおりです。だから、お坊さんは神社で柏手は打たず合掌して読経するのです。天である神様が解脱して仏になりますようにと。本地垂迹説もありますが、日本独特の宗教観ですのでここでは割愛します。
質問者からのお礼
転落院様
ありがとうございます!
仏様が人間に近いという事を初めて知りました。また、信仰して少し不安になるのは、神様仏様に失礼な事だと改めて気づきました。
お忙しい中回答して頂き、ありがとうございました。
転落院様(追記)
逆でしたか…理解出来なくて申し訳ありません。分かりやすい説明ありがとうございます。
鈍阿様
お礼が遅くなりたいへん申し訳ございません。
明治にそんな法令があったのですね…初めて知りました。
ありがとうございました!