神仏をどのように信じたらいいのか回答受付中
質問をお読みいただきありがとうございます。
私は特にどこかの宗教に入信しているわけではありません。しかし神社やお寺が好きです。仏教について知ることも好きです。辛い時仏教の本を読んでとても楽になりました。
しかしずっと小さい頃から気になっていることがあります。それは神や仏をどうやって信じたらいいのかということです。
諸行無常や瞑想、四苦八苦、縁など心の働きや実際に起こる現象に関することは納得することができるのですが、極楽浄土や地獄、阿弥陀様など目に見えないものはどうやって信じたらいいのでしょうか。
神様や、非人間的な仏様を「存在しない」とは思いたくないです。いつも神様や阿弥陀様が見守ってくださると思うから今日も安心して過ごすことができました。ですが「じゃあ証拠はどこにあるのか。」「誰か会ったことはあるのか?」と疑問に思ってしまいます。
僧侶の皆様は、神仏をどのように解釈していますか。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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暗闇さえも。
はじめまして。
浩文(こうぶん)と申します。
『いつも神様や阿弥陀様が見守ってくださると思うから今日も安心して過ごすことができました。ですが「じゃあ証拠はどこにあるのか。」「誰か会ったことはあるのか?」と疑問に思ってしまいます。』
実は私もそうなんです。
そのテーマについて
どんなに考えても
答えのようなものを出せたとしても
きりがないとは思うんですね。
常に疑問がつきまとう。
疑問をすべて仏様や神様に投げ入れて
あずけて生きる。
そうすると、疑問が晴れないこの身をこのまま受け容れることができるような気がする。
自分自身のことだけなら
真剣にやれば、それで決着するかもしれません。
一方で、信じるということについてですが
そもそも存在していると分かるものなら
信じる必要はありませんよね。
あるかどうか分からないから信じる信じないの話になるのでしょう。
『富士山というものが存在すると私は信じています。』
とは言いませんよね。
実際にあるのですから。
ではなぜ、分からないものを信じようとするのか。
たぶんそれは、分かること、納得することだけを見ていては生きていけないからだ、と教えているんではないかと思います。
仏の教えは、いうなれば暗闇を照らす灯りにたとえられます。
でも実際に何があるか分からない暗闇の中を行くのは自分自身だけです。
そういうときは
暗闇さえも信じるしかありませんよね。
神様や阿弥陀様は
灯りだけでなく、暗闇やそこをゆく私たち自身の、願いでもあり、祈りでもあるような気がするのです。
それで多くの人が
はげまされて、事実あゆみをすすめることができたなら、その事実が神様や阿弥陀様の実在を証明していると言ってもいいなと、私は思います。
南無阿弥陀仏 合掌
心は、いろいろです。
圓相と申します。
よろしくお願いします。
あえて端的に申し上げますが、
そのようにお考えになる時点で
もう信仰心があるのでは?
私は、仏教に限らず、いろいろ考えを巡らすのも
心の修行だと思ってます。
でも それでいいんです。それが正しいのです。
心の進化はいろんなことを考えることから始まります。
仏の存在の証拠なんか誰も持ってないです。
それでも、
ほんの少しでも、何かの宗教的な存在を感じることができてるなら
それは信仰の原点です。
きっと心が進化している。
仏様という存在についてですが、
仏さまは、人が動物から進化する過程で自然に生じた
人の心の奥にいる導き手。
深層心理でいうアーキタイプとしての原型。
心の奥にいる自分自身かも知れませんね。
物質じゃないので仏の実在の証明は簡単じゃないのです。
ここに集う僧侶の皆さんでも
それを証明するために修行なされているのではないかと私は思っています。
富士様に良いことがありますように。
合掌
いると「みなす」、教えに共感
例えば、脳死が人の死なのかどうかは議論が分かれるところでしょう。
しかし、臓器移植する場合には、脳死を人の死とみなすのです。
「みなす」ことで、実際の私達の行動が変わります。
それと同じで、阿弥陀仏や極楽浄土があると「みなす」ことで、私達の日常生活における心の在り方、さらには実生活の行動まで変わってくる。
もう一つは、「みんな漏れなく救われたら良いのにな」という、仏教の教えへの「共感」です。
阿弥陀仏は善人は善人ながら悪人は悪人ながら念仏すれば必ず極楽浄土に往生させてくださると、経典や注釈書に書かれている。
そのような仏教の慈悲への「共感」も、信心の在り方かもしれません。
また、浄土宗の場合は、こんな煩悩だらけの自分、戒・定・慧の三学をまともに実践できない自分だから、阿弥陀仏の本願に頼る以外に救われる道はないという、「残された選択肢」にすがる信仰の仕方、「機の深心」も説かれます。
機(自分の才能)がダメタメだから自力では悟れない、だから阿弥陀仏の本願力(他力)に頼るしかないという信じ方ですね。
仏様の御像をご覧になって下さい
拝読させて頂きました。
あなたは目には見えない仏様や阿弥陀様や神様や極楽や地獄をどう信じればいいのかと思っておられるのですね。詳細なあなたのことはわからないですが、あなたのその疑問はわかるように感じます。あなたのそのお気持ちを心より受け止めさせて頂きます。
おそらく昔の人達もあなたと同じように思われたことでしょう。仏様はどんな姿をしているのだろうか、極楽はどんなところだろうか、地獄に落ちたらどんな感じなのであろうかと思ったでしょう。
ですからお寺には様々な仏様の御像があります。沢山の美しい仏様が本堂にいらっしゃいます。またお寺には地獄絵図もありますし、極楽の絵図も飾られていたりするのです。昔の人々はその像や絵図を見ながら理解なさったり手を合わせたのです。
そして悪いことをしない様に戒め、善いことをする様にと心掛け、仏様のお姿に手を合わせたのです。
そう考えると今も昔もそう変わることはないと思います。
宜しければ菩提寺様や様々なお寺にお参りなさり仏様の御像をご覧になって手を合わせて下さい。様々な特別展でも極楽や地獄の絵図が展示されていることとても多いですからご覧になってみて下さいね。
仏様の御像や絵は様々素晴らしいお姿ですからきっとあなたの心の深く残っていくでしょう。極楽の絵図も素晴らしい有り様が伝わってくるでしょうし、地獄の苦しみも伝わってくるでしょう。
そして仏様や神様やご先祖様に手を合わせて信じてみて下さいね。
あなたがこれからも仏様や神様やご先祖様に手を合わせてお信じなさり、心から豊かに健やかに生き抜いていかれます様に、皆さんと潤いに満ちた充実した人生を生きることできます様に切に仏様や神様やご先祖様に祈っております。
そしていずれあなたが天寿を全うなさる時に必ず仏様や神様に救われて極楽に導かれます様に、ご先祖様が優しくお迎えを受けることが出来ます様に切に仏様や神様やご先祖様に祈っております。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ