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人に求める気持ちをなくしたい

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

自分のこだわりに対して、完璧主義なところがあるようです。
よく人から、「こだわっているね」と言われるのですが、
私自身は、それしか選択肢がないから、その方法を選んでいるだけでした。

何か、仕事や役につくと、それはそれなりの評価を受けるのですが、
次から当然のように、私の役目になってしまいます。
責任感からか、私は頼まれると手を抜けず、それに邁進してしまい
大変ではありますが、一言、労われると、それだけで満足でした。
でも、慣れてくると、皆、当然のように、「あなたが出来るから、やってもらう」とか
「好きだね~」とか、自分から進んでやっているように思われる事に、
怒りや悲しみを覚えるようになり
最終的には、そういった人達と距離を置いてしまうようになりました。
今までの人生で、そんな事を繰り返しています。

やりたい事も多く、親族や友人もいるので、寂しくはありませんが、
自分が気に入らないから、付き合いをやめるというのは、どうかと思うし、
自分の処し方に問題があるのだと、思い直して、
また新たな輪に入っていくのですが、                                                                                   
色々な方がいて、くだらないトラブルに真剣に耳を傾ける気にならず、
人を認めてはいるのですが、リスペクトする気はおきず
そういった付き合いは、長続きしないと思っています。

私のおせっかいさからか、手伝わないというのも難しく、
他人との距離の取り方や、他人の認め方、価値観の合わせ方など
この年にして、迷ってしまいました。

家族に相談すると、「自己満足したら?職人に徹してしまえ」といいます。
でも、私は助けてあげたいとか、喜んでもらいたいという気持ちが
一生懸命に行動する原動力になっているので、相手にわかってもらえないなら
やりたくないと思ってしまいます。
相手に感謝を求め、報われたいと思うのは、煩悩ですよね。
ちなみにお礼を頂くと、それで私の気持ちが相殺されてしまうようで
嫌なのです。気持ちの持ちようと、何をするべきか、方向性にアドバイスを頂けませんでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

マイ・ルールをもたない

携帯電話の設定のように、自分の中の設定を以下のように設定してください。
・期待OFF
・求めOFF
・マイルール押しつけ機能OFF
これを念頭に置くだけで、怒りは生じません。
この世というものの設定が、
あなたの願いや求めとは無縁に流れている所を、よーく見極めてみましょう。
お互い自由になれるのです。
ああ、この世界は私の願いとは無縁だったんだ!
シマの取り合いのように、オレのだ、私のだ、自分のだ、と人間だけが「わたくし」する。
「わたくし」を無くすのではなく、「わたくしする」行為を無くすだけでいいです。
それがあなたの安楽の心への修行です。
ピンとこなければ坐禅会やお寺の仏行体験にも参加してみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。確かにマイルールを押し付けない事が必要だと思いました。
「わたくしする」行為をなくす・・・修業が必要ですね。
ですが、心は楽になる代わりに、無になる=関心が薄くなって、
人付き合いが薄くなりそうです。
淡々とした付き合いが正解なのでしょうか? 何もできなくなりそうで、迷っています。

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