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仏様とのご縁?について

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有り難し有り難し 12

昨日、観光と共にあるお寺さんの近くを通ったのでお参りをしました。

そこには「子宝・安産」と書いてありましたが
独身の自分には今のところ関係無いからなぁ…と思いつつも、書いてあった南無阿弥陀仏を唱えお参りをしました。
その後、御朱印をいただいた際にも「子宝・安産」と書いてあり、自分には縁が無い所だったのか、でも訪れたことが縁なのか…とマイナス方向に考え込んでしまいました。

実のところ、自分の周りはすでに結婚、出産しており、みんなを見送った後少し寂しくなり、資格取得の勉強をしたり、転職したり、労働者として生きる道をひたむきに歩いてきました。

「結婚(子供)はいいよ~」「結婚(子供)は大変だよ~」と色々な話を聞きながら、自分の話(仕事)なんてしても絶対面白くないだろうなーと聞くことばかりでした。
子供もいないから社会貢献も、生産性もない、ただの納税だけでどうにかやっているダメ人間なのかなーと思っています。
(過去に自分をイジメていた人全員が子持ちなので、自分にとって子孫を作ることは無理だと思っています)

その面白くないだろうなーという気持ちが、気分が落ちている時は「つまらない人生だから」となり、「こんなはずじゃなかった」「私だって」と気持ちが落ちていく一方になります。

そこでこのお寺と出逢ったことにより、心身の弱さのせいで不満が溢れていきました。

「なんでこんなところに来たのだろう」

今まで詳しくはないのですが、お寺に行くことがとても好きでした。
スッキリしたり、あーもっとちゃんとしなきゃなーと反省したり、清々しくなったような気になるからです。

なのでこんなドロドロした気持ちになったのが初めてで、自分でもびっくりしましたが、自分だけでは気持ちを改めることがどうしてもできませんでした。

折角いただいた御朱印の文字を見るだけで憂鬱になってしまいます(本当に申し訳ないと思います)

きっと訪れたことは「関係無くは無い=何かのご縁」とどこかで微かに思うのですが、どうしても腐っている自分の腐敗が強烈で気持ちを改めることができません。

なので、お寺に訪れることや、お参りをする「ご縁」のお話をしていただけたら(喝を入れていただければ)幸いです。
遠い場所ですが、反省して再度訪れるべきですか?

長文になりましたが、何卒よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「ご縁」とは

ご相談拝読しました。

「ご縁」についてのご質問ですね。「ご縁」というと何か「運命」とか「不思議」とか「意味のある事」のようなイメージがあるかもしれませんし、世間一般でもそのような理解をされているかもしれません。

しかし、仏教本来の「ご縁」とは「条件」「対象」「環境」などの意味で、つまりあらゆるモノ・コトを成り立たせる「構成要素(成立条件)」のような意味合いです。

つまり、「ご縁」でないものなどないのです。私が生きていることも、あなたが生きていることも、あらゆる現象も全てご縁です。
さらには私自身・あなた自身も「これが私(あなた)の本体」と呼べるようなものは何もなく、全て細かくバラバラにして考えていくとわかるでしょうが「ご縁の集合体」でしかないのです。

ではあらゆる「ご縁」の中で、今回あなたが「子宝・安産」について引っかかりを感じたように、「何か自分に意味があるのかな?」「何か引っかかるなあ」と感じるのは何かというと、それは「渇愛」「執着」です。

「自分の思い通りにしたい」「都合の良いものを手に入れたい」、逆に言えば「都合の悪いものは遠ざけたい」という「思い・とらわれ」です。

ここで気をつけたいのはそれが「良い」とか「悪い」という話ではなく、だからそれをなくしてしまおうというのではありません。執着をなくそうとするのもまた「執着」でしょう。

そうでなく、「そういう自分に気づく」、「そういう自分がではどうするかを問うていける」、それが大事なのでしょう。

あなたは他者との比較やこれまでの生育過程の中で何かご自身のなかで頷けないもの・受け入れられないものがあるのではないでしょうか?
その一つのセンサーに「子宝・安産」が引っかかったのではないでしょうか?

勘違いしないでいただきたいのですが「全てを受け入れなさい」とか「何事にも感謝しなさい」という安っぽい教えを伝えたいのではありません。

私たちはどこまでいっても「執着」しかないのです。あなただけでなく私もそうです。その自分を知る・認める・受け入れる。

そこに「愚か者になって救われる道」が開けてきます。

何か立派なものになって救われるのではないのです。私たちがなれる程度の立派なものとは他の人を立派でないものにしてしまう様なものです。

この度のご縁をそうした気づきをいただく勝縁につなげていきましょう。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

法覚寺 吉武文法様

お返事が遅くなってしまい申し訳ございません。

自分が思っていた縁とは違う意味がとても新鮮で瑞々しい気持ちになりました。
でもまだ、しっかりと理解するには時間がかかりそうです(否定的に思っているわけでは全くなく、もっと調べてみたいな!という気持ちです)

執着は確かに…。
強い気持ちを持っていないと負けてしまうと思いすぎて攻撃的になっているのかもしれません。でも強い気持ちも必要な時ありますし…色々なことを時には受け入れ、時には受け流せることができるようになりたいですね。

まだ自分の中で、いただいたご意見を咀嚼するのに時間がかかりそうです。
でも、どうしても意見をいただいたことの感謝だけは早く伝えたく、なかなか上手な言葉にはまだできませんが、感謝申し上げます。

そしていただいたお言葉を自分の中で、時間をかけて自分なりに身につけていけるようになりたいと思います。

ありがとうございました。

★ちなみに私も北海道(函館ですが…)に住んでいたことがあります!たまーに野生の鹿が歩いていました!笑
関東は暖かくなりましたが、北海道はまだお寒いですよね。お風邪など、お気を付けてください。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
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涅槃と菩提心を求めず。仏様との向き合い方

悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ