バランスのいい執着の捉え方回答受付中
社会のバリアフリーの観点では「自立とは依存先を増やすこと」とされてます。心理学でも愛着について安全基地となる環境や人をつくってそこから冒険することや、いざというときに頼れると思える拠点を複数作ることを提唱しています。反依存という言葉もあります。
しかし、仏教では「執着をなくすこと」をよしとされていますね。
私は、間を取って「軽い依存を増やすこと」を考えましたが、執着もするし、いざという時に頼れないのではないかと思いました。私にとって執着しないで生きることは大変難しく思います。仏教では、対象が移ろいゆくものと考えることや愛と執着を区分すること、執着しすぎないことに執着しないことなどの考えがありますが、現代社会で生きる上で執着をどのように扱うべきでしょうか?
お坊さんからの回答 4件
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執着の根源はマイルール、エゴ、わたくしルール。
そのアクションをあなたが執着だァ、依存だァという言葉で表現「したい」と思ったとしても「実際の真実の様子」はどうか?それは執着とも依存とも呼べないもっと生き生きとしたサマをしているではないか。
なんでもこれは執着だァ依存だァと表現しないでいいのです。
それは「なんでも否定的批判的DISり言葉で表現して台無しにしちゃう症候群」です。ものごとの真実の在り方そのものを「尊重しない」で何やら悪い意味の言葉で表現したり、悪いことと関連づけることで「そのもの」の清浄性を台無しにしちゃう心理トラップです。たとえばアイドルグループの持つ良さだけを受けとっていれば人は快楽的幸せは得られましょうが、闇の部分・ウラの部分だけ知って悪い所にだけ焦点が当たるアイドルそのものが悪いものだと思えてしまうような心理なのでそういう言葉や表現に執着しないことこそ大事。
これは私が修行道場の調理場に居た時のことですが、後輩で威勢のいい子がいまして。精進料理を作る典座老師とスゲー相性が悪くて。老師のやってることは何でも自己満足だ自己満足だと悪しざまに言うのです。
この世の活動の全てを自己満足だといってみなさい。何でもかんでもみんな悪いものに見える。それは正しく、適切な言語表現とは言えない。
病院、災害で苦しむ人を助けるアクションも「自己満足だ」と言ったら、どれだけそのものを冒涜、謗る、けなすアクションとなるか。
禅の十戒にも不謗三宝戒、不自讃毀他戒と言い、ものの真実の在りよう・様子を壊すな、DISるナという戒めがある。
ものの真実の様子を適切な言葉で言わずに、雑に表現して違う意味合いをつけて呼べば「別物」になる。それこそ世の迷いの作用です。
だから、この話も無理に執着とか依存と呼んだりしなくていいのでは?もちろん実際に依存、癒着、しがらみ、ズブズブなものもあるでしょう。ですが、それは「個人」の上の心理や活動、状況における表現です。
執着を離れるには執着を無くすのではなく、おのれのエゴ、自我、我流のルールを先に無くす。変化するもの、誰のものでもないものをわがものとせんとしてとどめておこうとするエゴが執着ですから迷いや苦しみの種となるのです。
執着や怒りはおよそマイルールがベース。
向かない職について無理して体を壊すより、逃避と言われようと安全のためには離れなければいけない。言葉よりも事実が主役・メインです。
少欲知足
『“良しとしてる”』という考え方が執着を生む
『苦しみを手放したいなら、執着を手放せ』です
これは似ているようで全く違う言葉なんです
『お腹が減ったら飯を食え』と
『飯を食うことを良しとしている』は違う言葉です
『お腹が減ったままでいいなら飯を食わなくていい』のです
仏教とは『人間は本質的に自由である』というのが根幹にあると思っています
望んで執着し、望んで苦しみ、望んで縛られ、望んで死ぬ
ただ、見えていないことが多すぎて自分が望んでいることをわからずに囚われているから、自由を取り戻そうという話です
“依存先を増やす”というのは対症療法です
余りに大きな依存を抱えてしまっている人が、そのことに苦しむから、一つ一つを解決しやすい大きさまで分けよう、という話であって、ゴールではありません
小さい依存先の数だけ小さな苦しみをかかることになります
ただ、苦しみを楽しむことも自由だし、苦しみを求めることも自由なのです
依存から脱却するのはしんどい道です
筋トレがしんどいように、精神鍛錬も当然しんどい道ですから
だから、強くなる道を選ばず依存したければ依存すればいいし、しんどくても己を鍛えて依存から脱却するする道を選んでもいいのですよ
執着は人間の心に自然にあるものなので、付き合い方を自分で選ぶしかないのです
寿命(ご縁)を拒まず執着もせず
お釈迦様は、食べ物や衣を信者からのお布施(プレゼント)や供養(おもてなし)で得ていました。
街を托鉢で歩いて食べ物を布施していただかなければ生きていけないので、他人に依存していました。
ですが、仮に誰からもお布施を得られない日があったとしても、お釈迦様は怒ったりがっかりしたりはされなかったでしょう。
私達の生命は、寿命と体温(細胞)と識(こころ)の三要素で維持されています。
このうち、寿命とは何でしょうか?
私は、寿命とは、その人を生かす様々なご縁(諸条件)の総称だと考えます。
食べ物、お金、インフラ、空気や太陽光等のどれか1つが欠けても寿命は尽きて、たちまち肉体は冷たくなり、死んだ手足から順番に意識も離れていくのです。
お釈迦様は、寿命に執着はせず、しかし寿命が尽きるまで明るく平安に生きられました。
寿命(あなたを生かしてくれる人々や宇宙のご縁)を拒否するでもなく執着するでもないのが、仏教的には理想(悩み苦しみが少ない生き方)なのだと思います。