世の中脳みそ次第?回答受付中
ふと感じたのですが、仏教の視点として苦しく痛い状況でも、考え方次第ではひょっとして個人の頭の中で楽しみに変えることも出来たりするのでしょうか。
これはかなり高度な修行をしないとかもですが、極端に言えば「たとえ歴史上ある苦痛を与えるもの」を受けるハメになったとしてもです。
そしてそれは瞑想と言うものになるのでしょうか。もしくは修行となるのでしょうか。
世の中結局、脳みそ次第でどうにでもなるのではと思いました。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
”智慧”。
はじめまして。浩文(こうぶん)と申します。
実際に、覚せい剤や麻薬使用によって
脳に快楽を与える物質の分泌が起きる事象は、
それこそ『脳みそ次第』といえるでしょうし、
現実に医療行為として手術で麻酔が応用されているわけですよね。
ただそれが、薬に頼らず、『考え方次第で』となると
どの程度楽しみに変えられるかは分かりません。
仏教でいうと、脳に変化を与えるという意味では
瞑想や修行がそれにあたる有効な方法になるといわれています。
脳もからだ全体の影響を受けて成り立っていますから、単に脳だけに変化をおこすのではなく全身の身体技法として包括的にアプローチする考え方が、古くからあるようです。
それは仏教にかぎらず、東洋の伝統における特徴的な一面でしょう。
ですが、苦しみを楽しみに変えられるということを
仏教的にどう考えるかは、意見が分かれると思います。
抜苦与楽ということばが仏教にはありますし、
苦しむよりは楽な方がいいと普通は思うでしょう。
ここから先は引用になりますが
”お釈迦さまは、世俗的に得られる物質的快楽や、高度な瞑想技法によって到達する精神的安楽を否定はしなかった。
しかし、それらは苦(ドゥッカ)に含まれる。”
仏教では、苦(ドゥッカ)は”思うがままにならないこと”として一般的に邦訳されますが
苦しみも楽しみも、”思うがままにならないこと”(ドゥッカ)であり、それを思うがままにしようとして、人は苦しむ。
というふうに、より根源的な意味で「苦」ということを説明します。
この根源的な「苦」を「苦」として認めようとしない、明らかにしようとしない我々の在り方そのものを、仏教は批判します。それが瞑想によって精神的安楽を得た場合であってもです。
この在り方を「無明」と呼びます。
「苦」が明らかになれば、無明は滅します。これを仏教は”智慧”と呼んでいます。
いかにして智慧を実践するか。
苦にありというとも楽にありというとも
仏教の場合は、この智慧一本にかかっているのでして、
『脳みそ次第』というのには
若干ニュアンスが異なるのではないかと思います。
ただ、世の中『脳みそ次第』で云々、という考え方そのものを
必ずしも否定できるわけではありませんので
今後の参究次第ですね。
ご参考いただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
質問者からのお礼
浩文(こうぶん)さま
お話を受けて、私の認識の違いに気づく事が出来ました。
ご回答ありがとうございました。


