和讃はフシが難しすぎる回答受付中
私は仏教音楽が好きでたまに聴きますが、聴いているうちに自分でも通しで声明や御詠歌がやってみたいと思います。 経本をみれば和讃は地蔵和讃や光明和讃、大師和讃など、たいてい七五音×四句で一曲だと発見しました。しかし自分の智山派の密厳流や高野山の大師和讃などは全体が似ているようで微妙にフシが変化して曲が進みます。自分には博士が読めなくて難しいし、定められた曲以外に転用できないのでちょっと残念です。妙心寺派では坐禅和讃を平坦に読んだり観音和讃を真言宗の追弔和讃のフシで四句一曲で唱えたりするようですが、よそ様の曲を唱えたりしても良いんでしょうか? 既存の曲をやりやすくアレンジもしようと思えばできましょうが我流は抵抗があります。
追伸 各流派は大和流を持ち帰って、各自で研鑽したようですが、自分はセンスがないのでどうせなら共通でわかりやすいものを残してくれたらよかったのにな…あんまり難しい複雑な曲がたくさんあったら、しまいには失伝してしまわないのかな…などと余計な愚痴を考えてしまいます。
お坊さんからの回答 1件
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ご質問ありがとうございます。
和讃は難しいですよね。私も法要の時などで時々歌うのですが、私は高音を出せなくて少し低めに歌っています。他宗の和讃は知らないのですが浄土宗では西洋式に音符を記載した和讃の本もあるので博士より分かりやすいですよ。(もちろん博士にはそれでしか表現できないこともあるのですが)
ところで、和讃は歌詞と曲の両方が大事ですよね。歌詞は何を感じているのか、何を伝えたいのか、その歌詞の背景や作られた経緯は何だったのか。曲はそれらを表現するためにはどのようなリズムや雰囲気がいいのか。歌詞と曲が上手く相乗効果を出していますよね。でも感性は人それぞれですから、人によっては違う曲調の方が伝えやすい・伝わりやすいかもしれませんね。ですから集団で歌う時はみんな同じ歌い方でないといけませんが、一人で歌う時は多少のアレンジは構わないと思いますよ。ただし、下手なアレンジをするよりは音程通りに歌う方が良いですが。
長い年月とともに失われてしまうこともあるでしょう。ですが人の思いは受け継がれていきその時代にてきした形で歌は生まれ続けると思いますよ。
これからも和讃を楽しんでくださいね。


