hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

私は死後どうなるのでしょうか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 21

前回有償著作物を無償で入手したことについて相談させてもらったものですが、仏教的にはたとえそのように入手した作品を削除しても窃盗として五戒に背いたことになるのでしょうか?
また、この罪を帳消しにするほどの善行をしたとしても地獄に落ちてしまうのでしょうか?
その事が恐くて恐ろしくて、何をするにしてもその事ばかり頭から離れません。自首するにしても追い返されるそうなのでどのようにすれば私の心が解放されるのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大丈夫

阿弥陀仏はあなたを救うと誓ってくださっていますから、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば、地獄に落ちる心配はありません。
どうぞご安心ください。
一方で、過去の罪についてこの世でしばらくは思い悩むくらいは、仕方ないと思いましょう。
故意にやったのなら、一応は盗みです。
盗んだ物を削除したとしても。
どうか、この苦しみや悲しみを、今後の人生でさらなる罪を重ねないための「お守り」、他人に優しくなれるための「パワー」に変えてください。
ただ、過去は過ぎさりもうない、未来は未だ来たらずまだないのです。
妄想雑念にとらわれ、思考の堂々巡りになると、ストレスの原因になります。
今考えなくてよいことは今考えないように、注意しましょう。
南無阿弥陀仏で人生のハッピーエンドは確定。
だから大丈夫です。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

行いを反省しこれからの人生に生かすこと

人は意図の有無に関わらす、良いこと、悪いことを行います。周りに流されることもあれば、自己の利害によって行うこともあるでしょう。とかく人は様々な行為の後、あらためてその行為の善悪を、「やって良かった」、「失敗した、後悔した」と自己評価するものです。もちろんこれらは各人各様の差があり、軽く受け止める人、重く受け止める人がいます。しかしながら行為の結果は最後にはそれを行ったその人自身に帰結し、場合によっては世間の判断によって自身のみならず周囲にもその影響が及ぶことはしっかりと心掛けておくべきです。最近のネット動画の炎上騒動はその一例と言えるのではないでしょうか?
質問者様は今回の行いに対して恐らく大きな過失をしてしまったと後悔しておられる様ですね。ならば今後は今後は繰り返さない気持ちを片時も心から離さないように心掛けていってください。
今回の件について、死後の行く末を案じているようですが、一先ずそれは棚上げにしておき、これからは今回の一件を挽回することを考えましょう。自分を甘やかさず、人を傷つけす、人生への目標もって日々を送ってください。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

願誉浄史様、ご助言ありがとうございます。私は自分の行為が違法と知らなかったのです。善悪の判断がつかないほど幼稚でした。これからはこの事を深く反省し日々を生きていこうと思います。
寶川良隆様、ご助言ありがとうございます。これからは一日一善以上を目指して日々努力していこうと思います。死んだ後のことは神様にお任せしようと思います。

「死後の世界・死んだらどうなる」問答一覧

死んだら無になることへの恐怖

もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

2025年7月5日4時18分

荒唐無稽であることが望ましい話です。 標題の日時で検査すると、様々なところから滅びの予言がされていることがわかります。東日本大震災の三倍の規模の津波だとか核ミサイルだとかフィリピン沖だとか隕石だとか。事実無根と軽く扱うには根拠が重なりすぎていてどうしても軽視できません。そして私は「問題が起こる=解決できずに全てが崩落する」と強く感じているので、きっともう一年近くの命なのだなと感じています。 私はただ、痛みや苦しみから逃れられない物質世界で生きていたくないだけなのです。死ぬことよりも、死んだ向こう側で過酷な世界に生まれるのが恐ろしくて恐ろしくて仕方ありません。屠殺される家畜。逃げきれなければ捕食される草食動物。餌に釣られて毒殺される害虫。ああいやだ恐ろしいと思うのはいけないことですか? 生きることは恐ろしい。どう生きても自分より遥かに大きなものによって弄ばれて終わるこの矮小な身体が恐ろしい。脳味噌の誤作動と物質世界に永遠に閉じ込められているのが恐ろしい。そんなことを感じてはいけないのですか?苦しみを受け入れられるようにならなければいけないのですか?安心して生きてはいけないのですか?ガンジス川の濁流に飛び込んで疫病を得なければ救われないのですか?生き物の本来の姿とはどんなものなのですか? この時代のこの場所に生まれただけでものすごく幸運だというのに、その中でさえ上手く生きられなくて苦しんでいる私が、災害や大破局に直面した際に恨みを抱かず運命を粛々と受け入れられる気がしません。「だから生きるのは嫌だったんだ!だからこの世界は嫌なんだ!」と恨み憎しみの塊になったまま死んでしまいそうで、すなわち苦しい来世が確定しています。「今、ここ」に集中しようとしても、破滅のカウントダウンを感じるとそれどころではなくなってしまいます。未来が誰にも見えないのが恐ろしいと傲慢な感情を抱いてしまいます。 私が救いを信じられないのは、今までの人生において大いなるものの救いを感じられなかったからです。破滅の信憑性ばかりが高く、破局、混乱、絶望の未来しか待っていないと漠然と感じています。これらを否定したり適切な距離をとったりするには、あまりにもこの世界の矛盾や欠陥が多すぎます。「今ここ」に生きるよりも、「どうしたら苦しまずに死ねるか」でいっぱいです。 安心して生きることは傲慢ですか?

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ