名付けについて
読みやすく願いを込めて考えた名前ですが、身近な人から言われた言葉にかなりショックを受けてしまいました。
それから気になってしまい、他の名前も色々考えたのですが、しっくり来ず、結局プロフィールに記載の名前に決めました。
その方も最終的にこの名前がいいんじゃないと言っていたのに、決めた後にまたショックなことを言われ、私は気になって気になって、毎日寝ても覚めてもその事ばかり頭から離れなくなってしまい、後悔してしまいます。
上手く名前を呼べず、この子に申し訳ない気持ちでいっぱいです。やはりこの名前を見て、そう想う人が多いのでしょうか?
子供が大きくなったら、そうやっていじられたり、子供自身が嫌だと思ったりするのかなと考えては落ち込んでしまいます。
そればかり気になって、子供にもよくないと思うので、改名すべきか真剣に考えています。しかし、改名したとして、子供がその事をどう思うかも心配でなかなか決断が出来ません。
申し訳ありませんが、どうかご意見をお伺いしたく、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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【表音文字】と【表意文字】
ABCやひらがな、カタカナなどは【表音文字】といい、発音を表すのみで文字そのものには意味はありません。一方、漢字は【表意文字】といい、音だけではなく文字そのものに意味やイメージが込められています。例えば「山」という文字はヤマと読んでもいいし、サン、センなどと読んでもマウンテンと読んだっていい。
お坊さんだけが閲覧できるプロフ欄で、お子さんの名前を確認しました。
これのどこが問題なのでしょうか?どこからどう見てもじつに清々しい、色、温度、透明感、明るさ、雄大さ、ここに堂々と記載できないのがもどかしいくらい、とにかく気持ちの良いイメージしか湧いてきませんが…?仏教の真髄にも通ずるこんなにも尊く素敵なお名前は、あなたが付けてあげたの?かなりセンスいいと思うよ。
はて、いかにも文学的センスのない教養の低い連中のしょーもないダジャレを、そんなに真剣に受け止める必要はあるのかな?この名前の良さがわからないような連中は、逆にとっても気の毒だ。
もう子どもがうざいって嫌がるほど、この素晴らしい名前を呼んで呼んで呼び倒してやってよ、お母さん!!
名は願い
ご相談拝読しました。
お名前も拝見しましたが、素敵な名前ではないですか。改名の必要などないと思いますよ。
しかし、ここでお坊さんに肯定されたから改名をやめるというのであれば、結局それはまた他人の意見・評価に左右されているということになり本質的な問題の克服にはならないのでしょう。
今回あなたは否定的な評価を受けて落ち込んでしまったわけですが、はたして何を否定されたのでしょうね。そしてそれは本当に重要視するに値する評価なのでしょうか。
私たちは自分が為す事、話す事、見るもの、聞くものに執着します。
たとえば、私は毎月研修会に参加し、教学について考察したものをレジュメにして発表しますがやはり否定的な評価を受けると落ち込んだりムッとしたりしてしまいます。
この時何が起きているかというと、私はレジュメを評価されたのに、私自体を否定的に評価された様に受け取ってしまっているのですね。つまりレジュメと自分の自己同一化が起こっているわけです。これが執着です。
ですからそれがお子様の名付けとなるとものすごい熱量が込められているわけですから、一生懸命に考えたのに!という思いなども相まってその落ち込みが大きくなるのも無理はないでしょう。
しかし、名前で大事なのは一体何かという問題です。それは願いです。名に込められた願い。それは親と子の間のみの世界であって他者が入れるものではありません。
漢字とか読みとか響きというのは誰からでも評価されるでしょう。他人の感性・好みなんてバラバラです。それらを全ていちいち気にしていられません。誰からも否定されないものなどないからです。
確かに誰も読めないとか、社会通念上よろしくないなどというものならまた話も別ですが、付けられた名前は素敵なものだと思います。
そして何よりも、あなたとご主人がお子様にかけた願いを大事にしてください。お子様が最も大きく受け取るのは誰か第三者のしょうもない評価ではなく、親からの願いです。
本当に大事にすべきものは何か、自分の執著に振り回されて本質を見失っていないか、落ち着いて考えてみましょう。
質問者からのお礼
ご回答いただきありがとうございます。
心の中では、身近な人には賛同してもらいたかったのだと思います。しかし、人それぞれ感性や好みは違いますものね。目が覚めました。自信を持って子供の名前を呼びたいと思います。本当にありがとうございます。