私は楽になりたい。
お久しぶりです。
前々回くらいに完全に乗り越えた、という趣旨のことを書きましたが、全然そんなことはなかったことに絶望しています。
今日も帰宅途中で気分が悪くなり「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせて帰ったほど疲れ切っていたのに、この時間まで一睡もできませんでした。意味がわかりません。
本当に自分の身体が嫌いです。眠らなくていいなら体調を崩さないでほしいです。こっちは出来る限り、眠れるように、就寝の3時間前にお風呂に入り、水分を調節し、血の滲むような努力をして11時には布団に入りますが、一睡もしない日も多く熟睡もせず悪夢にうなされます。眠らなくていいなら絶好調でいろよ、って感じです。
私は海外に行き虐待を乗り越えた、祖母とも仲良くなれた、と書きましたが、あのときは随分ハイ状態で、通常モードになった今、全然そんなことないなと気づきます。
やっぱり、虐待の記憶や傷は、ゾッとするほど深く深く、癒えてはいないのです。最初にここに書いたような傷は、ずっとあるのです。そのことに対するやっぱりか、という失望感があります。
くだらないことで悩んでると思います。
小さな小さなことが、でも私には本当に辛く悲しく苦しくしんどいのです。前向きになるよう努力を積み重ね、気楽に生きられるよう工夫も惜しみません。でも前向きになんてなれない。なんでも、良い風にとらえられない。気楽になんて一番難しいアドバイス。
私は私のままで全肯定される生き方はないのでしょうか。このままでは自殺か他殺か、せっかくここまで真っ当に生きてきたのに、そんなの嫌です。
眠らない身体、何事も深刻に考え過ぎる性格、極端で思い込みが強く、何気ない一言に囚われてしまう。他人と関わるのは嫌いではないのに、酷く疲れてしまう。気を遣いすぎてしまう。ポジティブにポジティブにと言われても、責められてるようにしか感じません。
どうしてこんなに生きにくいのでしょうか。身体の不調が次から次へと、なんて生きにくい身体なんでしょうか。この身体のせいで、どれほどのことを諦めそしてこれからも諦めなきゃならないのでしょうか。
「明るい未来だけを考えて」と言われたって、明るい人生なんて一度もなかったし、そんなこと想像できません。私は辛い。この私という人生は辛い。なにを言っても全否定されて責められてるようにしか感じられない自分を責めてしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ポジティブなんかじゃなくていい
ひろさんお久しぶりです。ようこそようこそおいでくださいました。大したことも言えませんがいつでも来てくださいね。
ひろさんの悩みは「くだらないこと」なんかではないでしょう。大丈夫じゃないから「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせるのでしょう。
すごくしんどいですよね。
…なにがしんどいのか。
私が少し思うのは
>「前向きに」「気楽に」「良い風に」「ポジティブに」
こういう観念(頭の中で考え、自分に押し付け〔られ〕るもの)がしんどいのではないでしょうか。
苦しい目の前の現実に観念で無理やり肯定的な捉え方をして塗りつぶそうとする。でも本当は苦しいのですから、それって痛み止めを注射しながら心身にムチ打ってるようなものなのです。
>私は私のままで全肯定される生き方
というのは、苦しい時には「苦しいんだなあ」と、辛い時には「辛いなあ」と自分をそのまま受け止めてあげられることかもしれません。
だってその浮かんできた感情や感覚は自分で選んだものではないのです。苦しくなりたくてなってるんじゃない、辛くなりたくてなってるんじゃない。
自分が勝手に自分の力だけで選択したものなら責められるべきかもしれないし、観念の上塗りでどうにかできるものかもしれない。
でもそんなことはない。勝手に湧き上がってきたものなのですから、それに良いも悪いもポジティブもネガティブもないのです。そのままでいい。
と、同時に、感情・感覚はそのままでいいからこそ、自分の行動はそれに振り回されないようにするのです。感情は感情として抱きしめつつ、行動は自分を大事に出来る冷静なものでありましょう。(もちろん感情が爆発した時は行動の自制なんてできないですけどね)
>「明るい未来だけを考えて」
なんて汚い言葉ですが「ク〇くらえ」でもいいでしょう。
>「私は楽になりたい。」
これか全てでしょう。未来なんかじゃなく、今ここの現実から。そこからしか始まりません。未来のために今を犠牲にしなくていい。今、自分を大事にすることが未来を創っていくのでしょう。