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40代からの生き方はどう考えたら良いですか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 27

41歳男性です。

もうあまり頑張りたくないのが本音です。

もうゆっくり生きていきたいです。

23歳の時にうつ病を患って、今は元気ですがずっと17年くらいアルバイト生活で収入も乏しいので結婚は困難です。

生涯一人でも良いと考えています。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ただ存在しているだけで無限の活動ができる

手があれば手で自身も相手をも救う。
目があれば、目の向かわせ先で自分をより良いものに高められる。
耳があれば、耳の方向け先で自分をより良い精神に導ける。
心あれば、心をしてより良い心へ導ける。
そのより良い心へ導かんと向上する力を持つことです。
それが菩提心の具体的な働き・作用になっていく。
お釈迦様も道元禅師もこの菩提心が絶大であったから、悟りを成し遂げ=人間として最も明晰な精神に目覚め、優しい心=慈悲、明晰な頭脳=智慧をもって多くの人を救ってくださいました。
それに救われた人たちが世の中で優しい活動たいになっていった。
だから、あなたも救いを求めてみることです。
心底満足すれば、人間の持ち前のケチな心を離れて差し上げられる人になる。
自分も他人も救ってあげられる人になる。

今日は埼玉では風が強く、畑の土が待っています。
でもただその景色があるだけなのです。
そこに人は見解を添える。
「明るい、暗い、まぶしい、風が強い、よい、わるい、すき、きらい…。」
そういう事をやっておられませんか。
こういう働きを評価マインド・見解頭脳・コメント煩悩アタマと私は名付けています。
人間にはそういう働きがあって、いつも目の前の真実を曇らせる。
今あなたは40だのアラフォーなどということなどどこにもない。
数字はトリック。
人にラベルを付けて真実を曇らせる。
俺はもう40だから云々。
それも人間の見解だと知るべきです。
ああ、こんなことをやっていてもダメかもなぁ。
それも人間の見解だと知るべきです。
冒頭の「ただ存在しているだけ」とは、ぼーっと存在しているということではなく、醒醒としている様子。
人間の条件付けの立たない、無心無我なる様子。
これから無心やら無我になるんじゃない。
元々、あなたが思考のおしゃべりをしなければあなたは40でも50でもない。
自分が自分のアタマで自分を動けなくさせるのです。
それは執着・躊躇・ためらい・迷いの一念。
良く読み直していただき、自身の心の曇らせを除去して安楽自由な働きを取り戻すためにも醒醒と生きてください。
今日あなたはチキンラーメンを食べようが、中華三昧を食べようが、サッポロ一番を食べようが、ビックリマンチョコを食べようが、ファミコンをやろうが、聖闘士星矢を読んでセブンセンシズに目覚めようがあなたの自由。人間は自分の選択を選べるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

参考にさせて頂きます。

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