自分の存在について
自分は存在するのでしょうか。
五感がなければ私はおそらく自分の存在を認識できないと思います。
もし本当に自分が存在するのなら、五感がなくても自分の存在が分かるものではないでしょうか。
他の誰でもない私がいるという感覚は五感の認識機能を通して他の生き物との接触により脳がただ錯覚を起こしているだけなのではないかとおもいます。
私がいるから、体があるのではなく
体があるから、私がいるという感覚が生まれた
という考えです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝
「一切空」といえば般若心経に出てくる有名なフレーズです
全てが空であるという事です
これは「空っぽ」ではなく
全てが関係しあってその存在をなしているという事です
錯覚という言葉はあまり正確ではありませんが
「空」という表現はどうでしょう?
例えばゾンタさんの名前を呼んでくれる人が居るから
またどこかにしたためられ定められたから
「ゾンタ」という名前は存在しているわけです
そんな相互関係ですね
同じように
脳だけでも身体だけでも機能することはありません
五感は生命を維持するためのセンサーで
脳はこれを記憶と照らし合わせ相手 物事を認識、判断、行動します(細かくお知りになりたいときは般若心経の意味を調べると沢山ヒントが出てきます)
例え今突然五感が無くなったとしても
記憶だけは残るのでしょうけど
なんだか変な話ですね
身体があるから自分があるというのも正しいですが
人間には固有の「高度記憶」があるという考察が必要です
重要なのは脳をコントロールするの仏教的考え方です
身体があることによって
「自我」という自分の体を生かすための利己的な「欲」
自我を超えたそして反対に己忘れ他を思いやる利他的「愛」
ここにさらに「社会的利」も加わります
他の利を考えて生きることこそが幸せへの近道ですが
どの利に偏りすぎてもいけません
バランスが大事です
このバランスを意識的にコンロールできるのも
脳があってのこと
おのれの思考、行いをコントロールできるのは
人間だけの特別な能力
人生における要は己をコントロールできるか否かでございます
「五蘊仮和合」
ぞんた様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教では、人という存在については、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)と申しまして、代表的には、色・受・想・行・識の五つの要素が集まり、仮設して成り立っているものと説明致します。
しかし、その人というものの、では、どれが人を人足らしめているものであるのか、として探し出そうと分析したとしても、「これだ」という人の「実体」というものは見つけることができないのであります。このことを仏教では、「無我」や「空」と申します。
では、人は無いのかと申しましたら、そうではなく、五蘊を代表として色々な因縁(原因と条件)により有り得ているのは紛れもない事実であります。
もちろん、「実体」としては成り立ってはいないけれど、「因縁」に依りて成り立っている有り方のことを「縁起」として説明することになります。
この実体として、有るわけでもない、実体として無いわけでもないあり方のことを、「非有非無の中道」と申すのであります。(非実体有・非実体無)
そのありようは、あたかも幻のようなもの、陽炎のようなもの、夢のようなものなどとも言うのでもあります。
仏教は、「空と縁起」という考え方によって存在論を捉えて参ります。
是非、学んで頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌