「がんばって」ということば
私は、「がんばって」と言われるとうれいし、がんばろうと思います。
しかし、人によってはそう言われる時点ですごくがんばっていて、そう言われるとよけいに負担に感じてしまう人もいるのではないかと思います。
相手の人を応援したい気持ちがあっても、「がんばって」以外のことばが見つからず、何も言えないことがあります。
そういう時、どんなことばをかけたらよいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
相手を真に良からしめる光透波(ことば)愛語
for youよりもwith you。
私がそばについているよ、という寄り添う形でお伝えなさってはいかがでしょうか。
愛語というは相手がどんな立場な人であれ直観的に相手の利益・プラス・為になるであろう言葉や智恵を惜しげなくお伝えすることです。ここでいう利益とは精神的なプラスのことです。
言うのはその時しかありません。その直後不慮の事故が待っているかもしれません。
とにかく相手のためを思って言ってあげることです。
相手がそれによって結果的によくなっていくように言葉や肩ポンポンなどして、相手を勇気づける、力づけるように作用させること。怒ってはダメ。
でも単にやさしい言葉ばかりではないと思います。
もちろん、相手が聴いてくれない、受け止めてくれない場合もありましょう。
相手に気休めのコトバでいえば、自分に嘘をつくことになる。
「誤解しないでね、あなたのことを想って言うんだけれど…」
相手にそれが、愛、慈悲という形で伝わるように言えば、それは厳しい言葉であっても愛です。
「きっとよくなるよ」「今までも大丈夫だったんだからきっとうまくいくよ」「あなたなら大丈夫」「まあ気楽に行こうよ」「応援してるよ」「私がついてるよ」「ダメでも私が拾ってあげるよ(笑)」「転ぶにしても上手に転べばいいんだよ(笑)」
最後にあなたへ。
「次に上手に言えるように、今一緒にみんなで練習しておこうよ(^o^)」
祈ってます。
考えること
はいじさま
なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。
「精神的に追いつめられている方に『がんばって』は禁句」ということが一般に広まったのは、悩み苦しんでいる人をさらに追いつめずに済み、とても良いことだと思います。
ただ私自身も「がんばって」と言うことに躊躇してしまうクセがつき、少し困っています。
おそらくケース・バイ・ケースでしょう。意気揚々とこれから試合に臨む選手など、がんばることに前向きな方、またがんばれる余力のある方への「がんばって」はOKだと思います。
反対に、もう精一杯やっている、これ以上がんばる余力が無さそうな方への「がんばって」は、相手を追いつめることになりかねません。
私は、「がんばって」を言うことに躊躇するようになってから、その時その時、どんな言葉をかけたら良いのか考えるようになりました。
はいじさんも考えていらっしゃるようにお見受けします。その上で、「がんばって」以外の言葉が見つからないのであれば、その時は「がんばって」が最適な言葉なのではないでしょうか。
言葉は人それぞれ
10人いれば10人の意見。100人いれば100人の意見。人それぞれです。
確かに、被災地での頑張っては私自身も重く、いやな言葉でした。一緒にやりましょう。「何一言ってんだ、お、おまえには返る場所あるだろう。とも思いました。しかしながらそのとらえ方は人それぞれ。一緒に頑張りましょう といわれて 救われた方もいらっしゃいます。お釈迦様も180度違うことをお話しされてます。それは、その人一人一人の状況をにて話されてるからです。
はいじ様。
仰る様に安易に「頑張って…」は避けるべき言葉かと存じます。
種々の心のケア関係に関わったものの経験から申し上げれば、
「自分のペースで無理せずに、やわやわと…で、良い結果が出る様に願っていますよ」と申して居ります。
一寸長いフレーズですが…
Good luck!
はいじさん、はじめまして。
回答が出尽くした感がありますが、皆さんの言われるように
「がんばって」は誰に対しても使える言葉ではないですね。(^^;;
私もその人の状況を鑑みて使い分けています。
さて、応援する言葉として、他に何か良い言葉はないかな?
と考えを巡らせてたら・・・英語にヒントがありました。
そう、「Good luck!」
日本語にすれば、「上手く行くと良いね!」でしょうか。
これなら、誰に対しても使えるのではないでしょうか。
(ニュアンスとしては、水上さんの「祈ってます。」に近いですね。)
「がんばって」にプラスする
はいじ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
密富様と同様に拙生も社会福祉法人の理事長として心の病の方たちと向き合った経験からも、安易に「頑張って」と言うことはできるだけ避けるべきではないかとは考えております。
この「頑張って」・・調べてみますと「頑張る」の語源は、有力なものとして二通りあり、一つが「眼張る」、もう一つが「我に張る」のようでございます。
「眼張る」は、目をつける、目を張ってよく見ることから、一定の場所・モノ・コトから目を離さずに、動かないこと、動じずに取り組むこと等。
「我に張る」は、我を通すこと、一定の場所・モノ・コトに留まって少しも動かないこと等。
上記の二つを鑑みますと、現在のように「努力すること」として用いられるのは、「動じずに取り組み続けること」から派生したものではないかと思われます。
お釈迦様も長い成道の修行の末、いよいよ菩提樹下に坐して、悟りを開くまではこの場を決して動かない(不動)として数々の魔物たち(煩悩たち)の攻撃にも動じずに禅定に取り組まれて、やがてお悟りを開かれました次第でございます。
確かに一つの物事を成し遂げるためには、「動じずに取り組み続けること」が大切となります。中途半端にあっちもこっちもとフラフラしていては、身につかない、ためにならない、信用を得れないということがございます。
しかし、これも浦上様のおっしゃられるように「ケース・バイ・ケース」となりますでしょう。
それこそ、あまりに「我を張って」、こだわって、とらわれて、かたよってと執着しすぎていては、弊害が生じることも多々でございます。
また、個々人それぞれの能力にて頑張りたくても、頑張れないことも多くございます。本当にその人のことを思って応援したい、協力したい、助けたいとするならば、ただ無責任にも「頑張れ、頑張れ」と言うだけではなくて、このようにすれば良いのではないか、こうしたらどうかと親身な具体的アドバイスを添えることや実際の目に見える行動(お手伝い・ボランティア・奉仕・労力提供、寄付など)にて示すことも必要かと存じております。
川口英俊 合掌