信心するしないは、幸せに関係しますか?
いつも、ありがとうございます。
時々、疑問に思う事を質問させて下さい。
私の母は、昔から凄い信心する人で、私が思うに母が若い時に死ぬような病を祈願してもらって助かったことから、信心するようになったのかもしれません。
私が小さい時、お地蔵さんにお参りなど一緒に連れて行ってました。お寺や神社、お地蔵さん、ほんとによく通ってました。
私達が無事に過ごせますように。とのお願いをしていました。よく聞きますが、自分が年をとって人の手を取らなくていいように…のお願いもしていました。
そして、現在は私に依存しきってます。どんな時も私にです。人の手を取らなくていい!なんて有り得ません。とにかく私は、母の依存に疲れてます。年取ったから仕方ないとは思ってますが、仕事も忙しく、家事もして実家のことまで…それに適応障害の弟の事まで。 信心して、あれ程祈ってたのに。なので私が思うに人の手を取るとかは、自分の心の持ち方で変わると思います。そんな母の幼稚さ?になんだか悲しくなったり… 母は今では全く信心の気持ちは無くなってます。なんで、あんなにお参りしたんだろう?何もならんかった。と言ってます。 それに比べて私の友達の家は全くの無信心です。お父さんが亡くなって初盆でも和尚さんも呼ばずにお経もあげてません。 けれど、お母さんは、いつも前向きで
一人暮らしですが楽しく生活していて、娘(私の友達)に依存する事なく自立しています。
生きていくうえで信心していれば幸せになる、無信心だとご先祖様からも応援してもらえない。 なんて事は、関係ないのでしょうか? それは私の小さい頃からの思い込みでしょうか?
母からの依存は年だから仕方ない、後何年生きるかも分からないから、色々不満を持たずに接して行こう!とは思う時もありますが、ほんとにほんとに疲れます。
体が不自由になった訳でもなく、歩く速度は遅くなりましたが何でもできるのに、ヘルパーさんの仕事に買い物を頼んでるのに、週1は必ず私が買い物に連れて行かなくてはいけない事、それを母は当たり前と思ってる事も…ほんとに疲れてます。
母が亡くなるまで、こんな事が続くのかと思うと何とも言えない気持ちになります。
そんな気持ちを母に言っても何とも思っていません。
こんな私に何かお言葉をお願いします。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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信心の意味(下心)はさまざま
日本の先祖(死者)供養の原点は、荒ぶる神を鎮める、死者は怖いので祟られないように慰める、という感覚もあるでしょう。
また、先祖や神様を供養していれば良いことがあるとか勝手な期待もあるでしょうね。
しかし、仏教の信心の基本は、悩み苦しみストレスの原因である煩悩を、制御したり消したりすることです。
先祖供養や死者への供養も、自分自身の慈悲の心を育て、怒りの煩悩(不平不満や不快感)を減らすため、つまりは、自分の心を不幸を感じにくい性格に育てるトレーニングの一環です。
ですから、宗教的な信仰をしていなくても、煩悩がもともと少ない人や、煩悩の制御が上手い人なら、特定の宗教に信心してなくても幸せを感じやすい性格のケースはあります。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩を制御するのが上手いなら、たとえば怠けの制御が上手いなら、仕事でも趣味でも成功する確率がアップする。
仏教は、そのようなコツを体系化したテクニック、ノウハウの教えです。
なお、お地蔵様は、仏教の開祖お釈迦様の亡きあと、この世界の生き物を助けてくださる伝説上の聖者です。
先祖供養していないから不幸になる、という単純な因果関係はないと思います。
ただ、先祖のために供養する、他者のために供養する、そのような慈悲と心のゆとりがある人は、幸せを感じ易くなると思います。
質問者からのお礼
願誉浄史様 回答をありがとうございます。
幸せは信心するしない、ご先祖様の供養には関係ないと言うことですね。私は信心している人は人間的にも、できる人かな?と思うのですが母を見てると、そうでは無いな〜と思ってしまいます。
自分、家族の為に信心してたとは思いますが…今の母を見てると、あれ程信心してたのが嘘みたいです。先もあまり長くなく、今生きるので精一杯だから信心する気が無くなったのでしょうか?
幸せになりたい為に信心していたのでしょうか? あの頃の母の気持ちが私には分からないです。 どうもありがとうございました。