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背中を押してほしい、応援してほしいです

回答数回答 1
有り難し有り難し 14

結婚して専業主婦を続けていますが、
やはり一人でいると余計なことを考えてしまい、ネガティブスパイラルに入ってしまいます。
ヨガに行ったり行動してみていますが、いまいち生活にハリがなく、すぐに風邪を引いたり、起きてもいない病気の心配をしてしまったり、時間が勿体ない気がしてしょうがないです。
これがしたい!というものがなくて困っているのですが、近々、近所で簡単そうなパートを始めてみようかなと思っています。
ネガティブな気持ちの根本的な解決になるかどうか分かりませんが、とりあえず行動してみる、ということはどうなのでしょうか??
まずは自分の気持ちを落ち着けてから行動した方がいいのでしょうか??
悩んでいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の向かい先が笑顔になれるように応援しています。

人間の最高の心の周波数を仮に777ヘルツとしますと、その心のありようはどういうものかというと、静かで温かくてやさしい~感じなのです。
ヨガをされているそうですが、坐禅もヨガも瞑想も「形から入るもの」と言われますが、それでも大事なのはカタチよりも内容であると優れた指導者はバッサリ切り捨てます。
百人が同じ姿かたちをしてヨガや坐禅や瞑想をしても結局、心の内容がどうか。
手ごたえが無ければ続きません。
私も形の上で10年坐禅していましたが何も手ごたえがありませんでした。
それはちゃんとした指導者に出会えなかったということもあり、私自身も本当のことをも止める要求心や「正しい疑い」が無かったからでしょう。
「正しい疑い」とは痩せる薬やら病気が治る薬を飲み続けても効果がない場合、それは効かないクスリだったということにちゃんと気づけるチカラです。
坐禅、ヨガ、瞑想をする人は沢山居ます。
沢山の指導者がいます。
それでもちゃんとした結果が伴わないのでしたら、それは指導者がタヌキか指導内容がツカマセであるか行う側がコツを掴めていないないなど、チョットした見落としがあるということなのです。
人生の時間は限られております。
人生を最高に豊かにしてくれる最高の宝に巡り合える機会はその機会があっても見落としていたら見つけられません。
つまり大切なのはあなたがもっと求めるエネルギーを燃やすことだということです。
禅の道場でもただぼんやり人から言われるままにやっている人もいます。
やはりそういう人は成長しないのです。
お遍路さんに3か月旅立った人が帰ってきて夫婦げんかしたという人がいるそうです。
慈悲の瞑想をしている最中に「ごはんよー」と言われて「うるさい!俺は今慈悲の瞑想をしている最中なんだ!」とキレた人がいるそうです。
坐禅・念仏しても本当に手ごたえが無い坊さんもいるのです。
だからこそ、本当に学ぶべきことが何なのか。
そこを明確にする必要があります。
では、何が大事なのか。
チョッとだけヒントを記しておきます。
それは、いまこの自分の身心の上に起こって現れていることに目を向ける。
それが自身の上で「どのように」行われているかを眺めることです。
それは自分の見解・思い・思考・好き嫌い・判断などの介入がないままに行われている様子がある。そこを見極めるとよいでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中ありがとうございます。
コメントいただけてとても嬉しいです。
エネルギーを燃やすということ、心がけてみたいと思います。
最後の、ヒントの内容は何度も読み返したのですが難しくてよく分かりませんでした。すみません。。

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