改教と、これから通うお寺さんについて
こんばんは。
ハスノハに参加した時私は一応クリスチャンだったのですが、あれから色々あって、改教しようと思います。はっきり言ってしまうと、もうだいぶ前からすべての出来事に神の意志が働いて起こるというのが信じられなくなっていました。
最近わけあって近所のお寺さんでお世話になったので、まずはそこへお話を聴きに行こうと思います。ですが、そこは真言宗なので、通うと私は真言宗になってしまうのでしょうか?
以前仏教の本を読んだのがきっかけで、自分がすーっと入っていけそうな宗派のイメージができていて、それが真言宗ではないというだけで、真言宗が嫌というわけではないんです。
ただ、やっぱり最初にお話を聴きに行くお寺さんの宗派が違うといけないでしょうか。
ちなみに、私の家は普段どこか特定のお寺さんでお世話になっているのではなく、例えば父親の法事の際には植物園のようなお墓(父が眠っている所で、そこにお寺さんはない)にお坊様が短時間いらっしゃってお勤めをして帰られるという形です。
前は自分がお寺さんにお話を聴きに行くなんて考えていなかったのに、色々な事があってこんなふうになって、人の心も変わるものなんだなと実感しています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
宗派によるけど、基本的には心配ないかと。
仏教を学びにお寺へ足を運ぶのと、あなたがどこのお寺の檀家になるのかは別の話ですよ。
かつて、江戸幕府は隠れキリシタンを取り締まるために【寺請制度】といって、民衆はどこかのお寺に檀家として所属せねばならないというルールを決めました。昭和になって日本国憲法第20条で「信教の自由」が保障されたので、事実上、寺請制度は無効になったわけですが、未だにその名残は根強く残っており、寺と檀家はお互いに持ちつ持たれつの関係を今日までずっと維持してきました。しかし、あなたがこれから仏教を学ぶにあたり、どこかの寺院の檀家あるいは宗派に所属しなければならないというのは、原則としてはあり得ないと思います。
ただ、自由だからといって、あっちゃこっちゃ聞き歩くうちに、坊さん評論家やウンチク収集家などになってしまわないように注意してほしいです。こんな落とし穴にはまってしまうと、せっかくの仏教がちっとも実になりませんし、何よりもっともツマラン勉強の仕方だからです。
今までに学ばれたキリスト教の博愛精神も活かしつつ、ぜひ仏教の菩薩道を我々と一緒に歩んで下さいませ。
ようこそ。拝
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L.Mさん、はじめまして。質問を拝読しました。
L.Mさんはクリスチャンから改教して、近所のお寺さんへ話を聞きに行こうかと思っているのですね。でも、普段はどこか特定のお寺でお世話になっているわけではないので、どうしたらよいのか分からないのですね。
私の意見ですが、宗派や宗教にとらわれず相手の人柄で選ばれたらどうでしょうか。
宗派独自の考え方はありますが、L.Mさんが人柄が良いと思える方に話を聞いて見ることをおすすめします。
仏教を語っても、最後はその人の人柄ですから。
L.Mさんが良き仏縁や良き僧侶と出会えることを祈念しております。
質問者からのお礼
転落院先生こんばんは、ご回答ありがとうございます。昔からあったそういう仕組みが影響していたのですね。1度どこかのお寺さんに通い始めると、そこで将来お墓を作ったりするようになるとかそこまで想像していました。宗派が違うとかこれからどうしようとか少し心配していたけれど、もう少し気楽に近所のお寺さんの集まりに行ってみます。
大丈夫です、そんなにあちこちのお寺さんに行ったりしないで、最終的には一つの宗派でじっくりお話を聴くと思います。
ありがとうございました。
中村太釈先生こんばんは、初めまして。ご回答ありがとうございます。人柄ですね、まさにその通りです。これは悪口になるので"どうしてそこへ行かないのか"最初は伏せておこうと思っていましたが、実は祖父母の代が眠っているお墓(両親の代ではない)を管理してくださっている別のお寺さんがあります。ですが、そこはお金と遊びに関する事でお坊様の素行が悪く、正直そこに行こうという気になれなくて選択肢から外していました。
お坊様といえどもまだ人間で、色々な人がいると思いますが、信頼してお話を聴きに長く通いたいので慎重にいこうと思います。
私のこれからの事を祈念してくださってありがとうございます。色々なご縁があってとうとう改教に至ったけれど、仏教に出会えてよかったです。