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因果応報は変えられないのでしょうか

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良いことをしたら何倍の良いことが、悪いことをしたら何倍の悪いことが返ってくる。自らがしてきたことが何倍にもなって返ってくる、といいますが、悪いことをしてしまった分の悪いことは罰として、また自らの責任として、必ず受けなければならないのでしょうか。それを回避するすべはないのでしょうか。回避したいと思うのは甘えでしょうか。
また、「良いこと」「悪いこと」の判断基準とは何でしょうか。

2019年11月26日 13:04

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間の知恵 仏の智慧

”それを回避するすべはないのでしょうか”
あなたもご存知のように、たしかにこの世は【善因善果】【悪因悪果】という法則で回っています。ところで、善は倍増、悪は半減それ以下にしようとするのが仏教だといえます。悪果を生ずる悪因をなかったことに、帳消しにするということはできませんが、どんな結末が待っていようとも全身全霊でそれを受けて立とう、背負いきってやろうと肚が決まるのも、また仏教の利益といえるでしょう。

「追放可なり 牢獄甘んずべし」
明治時代に活躍した真宗大谷派の僧侶であり哲学者だった清沢満之は、『絶対他力の大道』という著書の中で、このようにおっしゃったそうな。あなたのおっしゃる”回避”が可能なのか不可能なのかの議論を通り超えたその先を、仏教は見据えているのかも知れませんね。

”「良いこと」「悪いこと」の判断基準”
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
浄土真宗の親鸞さんは、善悪の判断基準なんかわからんとおっしゃったそうな。つまり、善悪は人の都合によってコロコロ変わるので、おおよそあてにならないということなのではないでしょうか。これは、その時代、その国、その地域、その集団における一般常識や秩序を無視してもよいという意味ではありません。

結局、善か悪かの議論を通り超えたところにある、嘘か真かを仏教は追求しているようです。

2019年11月26日 15:50
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となりのトトロの世界のような山奥の田舎の小さな小さなお寺の住職をしています...

質問者からのお礼

転落院さま
お礼が遅くなり誠に申し訳ございませんでした。
『善か悪かの議論を通り超えたところにある、嘘か真か』とのお言葉に、ハッとさせられました。
良い・悪いに固執して本来大切にすべきものが見えなくなっていたように思います。
もっと視野を広げて、物事の本質を感じ取れる人間になりたいと思います。
ご回答いただき、ありがとうございました。

「因果応報」問答一覧

因果応報なのでしょうか

私は3年前に夫がいるにも関わらず、既婚者の男性と不倫をしておりました。私の妊娠を機にお互いの配偶者に知られる前に別れ、現在は別々の道を歩んでいるところでした。 少し前に人づてに聞いたのですが、彼が奥様と不妊治療の末待望のお子様を授かったようです。しかし、臨月にお腹の中でお子様の心臓が止まってしまい死産をされたというとても悲しいお話でした。 奥様も彼もとても傷ついていると思います。そして、これは私との不倫による因果応報なのでは、と思うようになり、過去の不貞により元々夫と子供に対して罪悪感はありましたが、その話を聞いてから毎日毎日私のせいだ、という罪悪感で頭を支配されています。親が行った悪行は子に返る、と聞いたことがあります。私と関係を持っていなければ彼の子は元気に生まれてきたのではないか、私はなんてことをしてしまったのかと、日々苦しくて仕方ありません。また、私の子供にも何か起きたらと恐怖心が付き纏います。私は今、幸せです。でも幸せになってはいけないのではないかと感じます。もう一生心から笑えることはないのではないかと感じます。こんな母親で、こんな妻でいいのか。奥様の気持ちを考えると死にたくなります。私はこれからどのように生きていけばよいのでしょうか。

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いじめた罪悪感と因果応報

長文失礼します。  私は小学生の頃、いじめをしてしまいました。掃除場所が一緒になった男子生徒で、その子は私と同じクラスでした。(A君と呼ぶことにします)  最初は普通に仲良く話していました。しかし、しばらくして同じ掃除場所の女の子たちがA君をゴミ呼ばわりするようになりました。  わたしはそれに便乗してゴミと呼ぶようになり、挙げ句の果てにA君に丸めた帽子を投げつけました。それも二回も。 A君は当然怒り、私に足払いをかけました。そのため私は転倒し、びっくりしたため、以来彼とは話していません。   その後、私はクラス内で人間関係がうまくいかなくなり、クラス中から露骨に嫌われた態度を取られるようになりました。( 私が配膳したお椀を受け取らなかったり、ふきん係で机を拭こうとしたら拭かれたくもないからいいと言われたり)  中学に入ってからも、特に何もしていないのに悪口を言われたり、気持ち悪いと机を離されたりしました。途中家の都合で転校しましたが、転校先でも悪口を言われました。  高校に入ってから、ようやく悪口と嫌がらせがなくなりました。が、最近過去のことを思い出すようになり、私があの時いじめてしまったから、因果応報で私もいじめを受けたのではないかと考え、後悔でいっぱいの気持ちになります。  受験ストレスもあるせいか、ずっと憂鬱な気分です。あの時謝ればよかったのですが、転校のためもう会う機会はありません。  正直辛いです。どうしたらいいのでしょうか。

有り難し有り難し 28
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因果応報の手前勝手な解釈が蔓延った理由

結果には原因があり、それは等しく誰にでもあるものですが、巷にはあれだけ悪いことをしたのだから、因果応報であいつは不幸になるよと言う嘘がまかり通っています。 元々自分を高めるための思想であった、因果応報が相手に不幸が訪れることを望むような因果応報に何と言うか劣化しています。 物事すべては原因があって結果がある。 その程度の意味であるはずの因果応報が、いつの間にか善行や悪行と言った、その時代にあった、変化のある価値観に毒されるとこで本来の意味を失っている気がします。 絶対善や絶対悪が無い中、意味のない独りよがりの善行に縛られ、生きることに本来の因果応報はないのではないかと考えています。やったことの責任や、今の状態に対する責任は自分でとれよと言う程度だとの認識です。 悪行を重ねようとも、幸せな人間はたくさんいますし、善行を重ねようが不幸な人間はたくさんいます。結局のところそれが身の丈にあった選択であったかと言うことに尽きます。心の持ちよう一つです。 誰かを助けて食うに困りそれが不幸だと思えば不幸ですし、誰かを騙し、殺し、奪いしてもそれで幸せだと感じる気持ちがあれば、幸せです。 自分を気持ち的に制御するのは自分。 なので因果応報の意味がああ恣意的に解釈されるようになった理由が非常に不思議です。 因果応報で相手が不幸になる的な、本当になんの論理性もない風説が流布された理由をご存知の方がいたら教えてください。

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