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震災の被害に遭うのも因果応報ですか?

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仏教の考えだと虐待を受けるのも前世の行いのせいだといいます。
では震災の被害にあったり、コロナで日常を送れなくなった人は、それまで日常生活を送れることになんの感謝もせずに、自分のことしか考えずに生きていたからバチがあたったということですか。

2024年1月6日 12:38

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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

突然に往生を向うるもこれ佛道なり

ご質問拝読いたしました。

今回の震災により尊き一命を
失われた方々、
謹んでお悔やみ申し上げます。
また、
行方不明の方々が速やかに
救助されますことを、
心底より祈っております。

愚僧ではありますが、
坊主をしておりますと、
いろいろな御縁に
合わせていただくことが
ございます。

幼子の突然の死
最愛の奥様の病死
ご主人様の事故死

などなど

特に檀信徒さまで、
お知り合いの方が亡くなると
読経しながら、自分が辛くなり、
嗚咽しながら、
唱えることもあります。

坊主としては、失格かも
知れませんが。

亡くなられた方が
どこに行くのか、
今後どうなるのかは、
わかりません。

しかし、
決して因果応報などでは
ありません。
毎日平穏無事に過ごされていて、
たまたま、
亡くなられたのです。

愚僧は祈るしかできません。

神仏の計らいなど、
わかるはずもないのです。

我々は
御往生を御縁として、
亡き人を偲び、祈り、
この儚い命、
一瞬一瞬を大切にすべしとの、
教えを承けるばかりです。

2024年1月6日 16:22
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有り難し
おきもち

浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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非業による巡り合わせもあります

拝読させて頂きました。
災害にあったり事故にあったりコロナ等の病いにあったりすること、虐待を受けたりすることも前世の行いによるとは言い切れません。私達は様々な巡り合わせの中で生きている為にその様なことに出会ってしまうこともあるのです。ですから非業の巡り合わせによる縁と言えると思います。
感謝しないからバチが当たったとは言い切れないと思います。生きている中ではその様な場合もやむを得ずあるのです。それは私達には計り知れない想像の域を超えたことです。
ですけれど改めて今生きていることの尊さや本当にかけがえのないことを実感することもできると思います。

2024年1月6日 15:35
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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」

業の問題は複雑、難解であります。いったん、業が結果へと向かい始めれば、たとえ釈尊であっても止めることができないほどの力もあります。

例えば、過去世からのある業の因縁の結果として、次の生まれが決まり動き出せば、もう、それを止めたり、変えたりすることは、釈尊でも難しいものとなります。それが故に、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」として、「悪い行いを成さずに、善い行いに努め励みて、心(業)を浄らかに調えなさい」ということが仏教の教えになるのであります。釈尊、如来が個々人の業を浄らかにしてくれるというものではなく、あくまでも浄らかにするのは自分の取り組み次第ということになるのであります。

また、業は私たちの認識のありようにも大きな影響を及ぼすものとなります。

物事の捉え方が、個々人で異なるのも、それぞれの捉える側の業の状態によるところからとなります。(唯識)

戦争や災害など、多くの人や国中の人々が大きな被害を受けるような業を「共業」(ぐうごう)によるものという場合があります。これは大勢の集団や国による行いにより積んだ業の結果ということになります。

例えば、間接的にでも戦争に加担して殺人を犯すことになるとして、国が、その戦争に対して武器の資金を提供するなどした場合(ウクライナ・イスラエルへの支援など)、その資金が税金からであれば、たとえ一人が払った税金がその資金の数円分であったとしても、間接的に人を殺す武器を提供することに加担してしまったという業、殺してしまうことになった業を背負ってしまうことになるのはあり得ることになります。

もちろん、その結果が、どのような形でやって来るかということまでは、私たち凡夫が図り知れるところではありませんが、過去の戦争加担の業の結果として、大震災や大事故などが、その報いとしてやってきたと考えてもおかしくはないことになります。もちろんその因果関係まではっきりとさせるのは難しいことであり、ただの天災、自然の営みをそう捉えるのは私たちの都合によっての恣意的なこととも言えるでしょう。

いずれにしても、業を浄らかに調えねば、迷い苦しみ、輪廻を超えることは難しいと考えるのが仏教となります。業を浄らかに調えれば、認識も浄らかに捉えていくことも可能となります。過去よりも、現在の心のありようを省みて、業をしかるべくに調えて参りたいものです。

合掌

2024年1月7日 13:35
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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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因果は応報しますが、それは無数の個別具体的な因の集積です

私たちは、例えば学校のテストのような「回答→採点」といった、原因と結果が一対一に見え、それも短期間に現れるような現象に慣れているので、すべての現象はそのように単純にすぐに現れるものであると考えがちです。
仏教の因果説の基礎は「因あれば果あり」で、すべての現象には必ず原因があると説いていますが、それは単純なものではなく、実際には無数の原因が無数の時期や環境の縁にそって生じるものであるとしています。
また、ヒトがなす善行、悪行は具体的な個別の現象です。「それまで日常生活を送れることになんの感謝もせずに、自分のことしか考えずに生きていた」というのは、あるヒトの一定期間の生存のあらましを第三者の目でざっくりととらえたイメージでしかありません。おおまかな傾向としては「ちょっと残念な流れだったね」と言えるかもしれませんが、それは第三者の目で見たイメージであって、当事者の具体的な因果の実際とは何の関係もありません。
ですから、仏教の因果説によるならば、「コロナで日常を送れなくなった人は、それまで日常生活を送れることになんの感謝もせずに、自分のことしか考えずに生きていたからバチがあたった」と簡単には言えません。
ヒトは生存のなかで善行もし悪行もします。それはたしかに善行、悪行ととらえることができますが、それには「大きな善行」も「小さな悪行」もありません。善い果につながる因が善行であり、悪い果につながる因が悪行です。それに大小があるように思うのは、勝手に自分の尺度を持ち込む私たちの妄想です。
実際にはヒトは生存する中で数えきれない善行もし、数えきれない悪行もするわけですから、それらの無数の個別具体的な因の集積が縁にしたがってある時、果として現象するということです。
「そんなはっきり分からない結果なら意味ないじゃないか」と思うかもしれませんが、因果説の基礎にはもうひとつ「因滅すれば果滅す」があります。因がなければ果は現象しないということです。
箱の中にたくさんの黒い砂と白い砂が入っているとして、一粒づつ黒い砂を除いていくと、最初は全体に灰色っぽく見えた箱の中が次第に白くなっていくことを想像できると思います。因果も同じで、私たちが仏の智慧にしたがって悪行を避けていけば、必ず良い現象へと近づいていくことができるわけです。

2024年1月10日 5:17
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有り難し
おきもち

新潟県上越市、龍興山宗恩寺住職。
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