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六波羅蜜の忍辱と因果応報について

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お世話になっております。六波羅蜜の忍辱と因果応報について、合わせてお聞きしたいことがあります。六波羅蜜の忍辱の修行は、人それぞれの解釈というか、正解があると思います。僕は忍辱は、自分の考えかたや、捉えかたを、変えることだとは思います。ですから、僕に自因自果、というか悪因悪果の報いが現象化してきた時に、「それ」をどう捉えるかということを、意識して変えようとするのですがうまくいかないです。どうしても瞬間的な怒りが湧いてきて、そのまま精神を持っていかれたりするからです。さらに言えば、悪果が理不尽なことであればあるほど、何か月も思い出すたびに相手やその出来事を恨んだりしてしまいます。これは、僕自身が因果応報を心の底から信じられないよう所為な、己の無知の所為なのかもしれないです。ということは、因果応報を心の底から信じられるように、自分の解釈を変えられたら怒りや恨みが抑えられるのかもしれません。このように、自分の信念を変えることが忍辱なんでしょうか。

2024年3月29日 21:06

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

智慧波羅蜜(観察、悟り)

智慧の実践、現象を観察して真理に気付く(悟る)ことが必要でしょうね。
まぁ、簡単にできることではないですが。
たとえば、
身(肉体)は不浄(綺麗なものではない)であり執着に値しない。
受(五感や意識が受け取る刺激)は苦しみ(ウズウズさせるもの、変化し続ける突拍子もない宿題)であり執着に値しない。
心は無常(瞬間ごとに新しい心)であり執着に値しない。
法(頭で考えたこと、概念)は無我(空)であり執着に値しない。
と観察してみてはどうでしょうか。
それが難しい場合は、
とりあえず南無阿弥陀と念仏を唱え、心に浮かんでくる怒りや妄想雑念は心という家のお客さんだ、南無阿弥陀仏の念仏は家の主人だ、お客さんは必ず過ぎ去り南無阿弥陀という主人だけの心に戻ることができる、と考えてみてください。
煩悩はなかなか無くならず、忍辱は難しい修行で失敗ばかりですが、そのような煩悩まみれの私達を阿弥陀様は見捨てないのです。
阿弥陀仏の智慧の光明はどこでもあなたを照らしてくれ、阿弥陀仏の慈悲の寿命はいつまでもあなたの念仏を待ち続けてくれます。
なむあみだぶなむあみだぶ
なむあみだぶなむあみだぶ

2024年3月30日 13:32
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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忍辱とは考えの上での上手な対処法ではないでしょう。

忍辱とは、わたくしなきことであり、我の心のない様子で何事も処することです。
自己を見つめ自己の我をしずめ得た様子で生活することです。
※前回のご質問にもお答えしたつもりでしたが反映されていませんでした。
忍辱ということはおおよそ市販の仏教書・ものの本によると、我慢すること、耐え忍ぶこととという風に説かれてますよね?あれ、違うと思います。だって、我慢って、無理して我慢してたり、自分ルールがすでにあるじゃないっスか。
また、沢山の解釈があっていい?そんなものでしょうか?いいえ。
ちがうものはちがうものです。王道の忍辱は一応こういうことだという道理がある。あるのに、それは僕は違うと思うからこう思ったことをやっているだけ。王道の忍辱じゃないから救いにならない。違うことをやっているというだけだと思います。
忍辱とはわたくしなきこと、つまり、我を立てる以前の自己の様子。法の様子をいきるということ。法の様子とは自己を忘じた様子=この自己の身心のありようをみつめて本来の無私の状態を明らかにして「わたくし意識・自分自分した我のこころ・エゴイズム・自分中心な見解」が生ずる前の心でいなさいよということです。
そもそも苦しみというものは人の都合、我の見解、我見、人我の見解というものが関与するから起こるものです。
変な喩えですが、小学校をとっくに卒業した50過ぎのおっちゃんが懐かしの小学校の父兄参観にいったら昔と全然教育内容も違っていて(# ゚Д゚)俺らの頃はこうだった!と愚痴るような我が発動している状態こそが非忍辱なる様子です。
よって「自分の」考えかたや、捉えかたを、変えることではないということが言えるのではないでしょうか?そもそも最初から自分を立てていれば、世間は生きづらいものでしょう。仏法というものはわたくし・わたし・自分が先にない世界。そこに俺が僕が私が自分がという我を持ち込めば当然、現実とのギャップで苦しい。瞬間的に腹も立つでしょう。それこそまさに因果応報でしょう?
気を悪くするかもしれませんが、あなたの悪因を取り除かんがために申し上げるのですが、きっとこれでいいはずだ!と思ってやってみた結果、やっぱり苦しいし、苦しみがなくならないわけでしょう。だったら、その効かない薬は正伝の仏法ではないと気づいて手放す。道理にかなった忍辱行を修せば結果、善因による善い結果が生ずるはずです。

2024年3月30日 14:58
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

忍辱って、耐えることや我慢することとは違うんですか。僕はそれぞれの忍辱の正解があっても、それを邪見とは思いませんね。真理とかわかんないんですが、耐えたり我慢したりして、怒りが減るとしたらいいことで忍辱じゃないですか?おっしゃるように無我で心がけるのも忍辱になるんだろうなとは思います。でも、僕には難しいです。悪果が現象化したときに、無我でいることが忍辱であるというのは正しいと思うんですよ。多分、忍辱なんだろうなと…。もしかしたら、悟ったりした人には全部、忍辱になるのかもしれないです。たしか、アングリマーラの話では悟った後も、石投げられたりしてフルボッコにされてたと思いますが、忍辱になるのかなと思います(´;ω;`)

そうそう、修行ですから、自分で真理に気づくようなこと(大げさかも)で、怒りが減るようなパターンもあるかもと、なんとなく体感したこともあってこれも、忍辱なるのかもと思ったんです!

ご回答、ありがとうございます。

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