鬱病になり生きる存在価値がわからないです
私は中学校3年の時、美術の高校に入りたかったのですが、その時期に鬱病になりました。
中学校も通えなくなり、私は自分の存在価値がわからなくなりました、その時、最後の力で、私の存在価値を示したくて必死で描いた絵が県で1番になりました。
私の生きる意味はここにあると思いました。うつ状態になると、死について深追いして、暗闇が見えて、そこから見る光が綺麗だと思い、それを絵にする事が幸せで、私にしか出来ない特別な事だと思い、暗闇に入り込むのが私の快感でした、両親はそれを引っ張り上げ、生きる事を私に教え続けます、私は争います、私の生きる意味が無くなるからです。絵を描き続けて死ねれば本望。しかし、私は中学校の時の最後の絵を境に絵が描けなくなってしまったのです。絵は描けば必ず評価されるものなので、評価が怖くて描けなくなりました、評価が悪いイコール私の価値が無いと思っていたのです。私は私の絵の力を今でも信じています。
描けない日々は死んでいるみたいでした。
それが、最近急に描ける様になり、それらの絵を見て思うのです、
私の価値ってこれっぽっちなのか?
これのために、絵と心中できると思っていたのか?、と、
私の命ってこれっぽっちなのか?
私は本当に絵が好きなのか?
母は最後に描いた絵を境に、絵を褒めなくなり、絵が描けなくても、あなたは素晴らしい存在だと言い続けます。
私は、どこで生きる事が正解なのか、未だに迷っています。
どちらも素晴らしい世界です。
行ったり来たりすればいいのでしょうか?
私の生きる場所は、どちらかに決めなくちゃいけないでしょうか?
どちらも私の愛すべき居場所なのに正反対の場所にあるのです。
決心できず、迷ってます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生きていることが…
拝読させていただきました、慈陽院の平本と申します。
今回は、自分の存在価値でお悩みになっている感じでしょうか。
まず私達は、自然世界で生きている生き物であり、自然世界で生きている生き物に、存在価値がない生き物は、いないのです。
つまり存在価値とは「生きている」ことが存在価値であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
しかし人間社会を構成していくなかで、人が勝手に価値ある人間かどうか判断するようになってしまいました。しかし評価など曖昧なものであり、評価=価値と考えることは、よくありません。
あとは、何でもそうですが、好きなことが何であるかだと思います。
好きなことが絵を描くことであるなら、絵を描くことに一生懸命になればいいと思います。
評価を気にせず純粋に絵に打ち込むことが大事な気がします。
ひなこさんは、生きていることに存在価値があるのであとは、好きなことをもう一度見つめてみては、どうでしょうか。
人間社会の価値観にとらわれず、純粋に自分の気持と向き合って、行くべき道を見出せればと思います。
また何かありましたら、ご相談お待ちしています。
質問者からのお礼
御回答有難うございます。
生きる事をやめない事
生きる事が存在価値である事を忘れずに
周りの人間社会が勝手につけた評価より自分自身の好きな絵に一生懸命になれる自分を目指したいと思いました。
はじめて御回答頂けてとても嬉しかったのと、何か掴めた気がしてます。
有難うございました。