因果応報の手前勝手な解釈が蔓延った理由
結果には原因があり、それは等しく誰にでもあるものですが、巷にはあれだけ悪いことをしたのだから、因果応報であいつは不幸になるよと言う嘘がまかり通っています。
元々自分を高めるための思想であった、因果応報が相手に不幸が訪れることを望むような因果応報に何と言うか劣化しています。
物事すべては原因があって結果がある。
その程度の意味であるはずの因果応報が、いつの間にか善行や悪行と言った、その時代にあった、変化のある価値観に毒されるとこで本来の意味を失っている気がします。
絶対善や絶対悪が無い中、意味のない独りよがりの善行に縛られ、生きることに本来の因果応報はないのではないかと考えています。やったことの責任や、今の状態に対する責任は自分でとれよと言う程度だとの認識です。
悪行を重ねようとも、幸せな人間はたくさんいますし、善行を重ねようが不幸な人間はたくさんいます。結局のところそれが身の丈にあった選択であったかと言うことに尽きます。心の持ちよう一つです。
誰かを助けて食うに困りそれが不幸だと思えば不幸ですし、誰かを騙し、殺し、奪いしてもそれで幸せだと感じる気持ちがあれば、幸せです。
自分を気持ち的に制御するのは自分。
なので因果応報の意味がああ恣意的に解釈されるようになった理由が非常に不思議です。
因果応報で相手が不幸になる的な、本当になんの論理性もない風説が流布された理由をご存知の方がいたら教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「予定調和との混同」?
あくまで私見ですが…(一部補筆しました)
仏教で説くところの『因果(いんが)』…
「原因」と「結果」は、時間的・空間的な限定・制限のないものを指します。
(時間的とは、過去・現在・未来の三世。空間的とは、東西南北などの十方。)
つまり、人間の都合に縛られない『天地の道理』『自然の摂理』における「原因と結果」です。
『欲』という生きるためには欠かせないものであっても、自分勝手に委ねてしまうと『苦しみの元(煩悩)』となってしまう…
その道理をイメージし易く説かれたものが、本来の『善因善果』『悪因悪果』であったと思われるのですが、この『善悪』という二元論的な表現が、中道思想を省略した現世利益的な意味で曲解されたのではないでしょうか…
(人間の道徳的な尺度で)「良い」と言われていることをすると幸せになり、「悪い」と言われていることをすると不幸になる…
『因果応報』という文字からイメージされるものが、前記のような『予定調和』(天地の道理とは違い、人間の都合で生み出されたもの)と混同され、広まってしまったのではないだろうか?
…と、考察致します。
因果応報を語ること自体
どうも!
「因果応報」、あるいは「自業自得」というのを、「思想」としてみたとき、思想と呼ばれる以上、それは、人が語る言葉によって知られます。
なので、因果応報を語る、ということをすれば、その行い自体もまた、何かしらの結果や報いを生み出す原因になる、という、このことを忘れてはならないですね。
つまり、「悪いことをすれば罰があたるぞ!」と語る行為自体も、時、場所、相手、を選ばないと、これまた、自らを苦しめる原因になってしまう、ということです。
この、「時」や「場所」や「相手」といった諸条件のことを、仏教では、「縁」と呼びます。
私たちは日々、苦しみを避けて生きていこうと思うのであれば、この、ご縁にそって生きていくことになります。法にしたがった生き方です。こういう生き方ができる人を、智慧のある人と呼びます。その道を究めた人のことを、聖なる法と呼びます。仏さまですね。法と呼ぶにふさわしい人(?)です。
「因果応報」と呼ばれるようなことも、こうして、聖なる法(仏さま)から、人々に知られていきました。
これを、人々にわかりやすく伝えるために、「仏さまによって、"説かれた"」という風に、記されたのです。
このようにみていくと、「因果応報」というのも、「思想(言葉)」とみることもできますか、仏さまによって説かれるレベルになると、「法」と呼ばれますね。法は、その性質において「空」とも言われますので、もはや、言葉(諸行)のレベルにはない、という感じですね。その仏さまの生き方から知られていきます。だから、仏さまは、もう業を積むことはないんですね。
ぶっきょう、おもしろいね!うん!