処分したぬいぐるみが気がかり
数ヶ月前、家を購入して引っ越すのを機に不用品を処分しました。
その際ぬいぐるみ3体をリサイクル業者に譲渡しました。
どれもそれなりに思い出のある品でしたが、新生活に向けて断捨離したい・なるべく物を減らしたいという気持ちが強く、当時は不要だと判断したのでしょう。
今更ふと「新居に連れてきてあげればよかったかも」と考えることがあります。
また、段ボール箱に詰めてリサイクル業者に送るという粗末な方法を取ったのも可哀想でした。
人形供養という儀式があるくらいですから、ぬいぐるみの処分も少しは気を使うべきだったのかなと思います。
ぬいぐるみが誰かの手に渡ったのか、ゴミとして燃やされてしまったのか、今となっては分かりません。
仏教において、物と人の縁(?)はどのように捉えられているのでしょうか。
物が人を恨んだり呪ったりすることなどあるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私の認識を通して物がある
ご相談拝読しました。
新居で新生活を送られているのですね。断捨離は処分前には頭を悩ませますが、処分後はスッキリするかと思いますが、何か引っかかる所があるのですね。
大事なぬいぐるみだったのでしょうか?あるいは新生活において何か上手くいかないことがあってぬいぐるみのことが気にかかってきたのでしょうか?
物と人の関係ですが(正確に論じる能力は私にはないのですが)、普通はこう考えるのだと思います。
私の認識に先立って、物が物としてまず実体的に存在し、それを私が認識する。
例)ここにぬいぐるみがある。このぬいぐるみはこうである。
というように。
では仏教ではどう考えるのか。
そこに私が認識する前にぬいぐるみが本当にあるのか?私の認識するぬいぐるみと、他者が認識するそれは同じか違うか。
「このぬいぐるみは私を恨んでいる」という人もいれば「このぬいぐるみは私を守っている」という人もいる。同じぬいぐるみでも赤色だという人もいれば紫だという人もいる。
何が違うか。ぬいぐるみが違うのか?いや、私の認識が違うのである。そうなると私の認識に先立って物があるのでなく、私の認識によってこそ物がそこにあると捉えているのが私である。
という具合になろうかと。
すると、物が人を恨むとか呪うというのは、物の問題でなく人の問題であることがわかります。
「恨んでいる」と認識するものが人にあるということ。
例)良くないことが続いてそれを物のせいにしている
ならば物の供養というのも、物をどうにかすることでなく物への人の認識、思いを対象とするものであることがわかります。
物が人を恨んだり呪ったりすることはありません。
物が人を恨んだり呪ったりするかのように
思ってしまう(思い込んでしまう)私が居るだけです。
でもそれは
それだけ思い入れがあることの裏返しです。
何事も諸行無常で
いずれ必ずお別れが来ます。
ましてや大切なものとのお別れなら
愛別離苦
苦しみが伴います。
それが人間の感情なのです。
質問者からのお礼
吉武文法 様
ご丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。
新居での暮らしは順調なのですが、何年も部屋にあったぬいぐるみが今はない…という事実に寂しさを覚えておりました。
手放す必要はなかったかも、気の毒なことをしたかもと。
物の供養とは、物それ自体ではなく、物に対する人の思いを救う(?)儀式なのですね。
今のところ信徒ではありませんが、これから仏教の考え方を学んでいきたいと思いました。
和田隆恩 様
ご回答いただき、ありがとうございます。
確かにおっしゃる通りです。
諸行無常、愛別離苦……仏教のお言葉に照らし合わせると、様々な物事が自分の中で納得できるような気がいたします。