生きる目的か、楽に死ぬ方法が欲しい
私は、今人生の意味を失いかけてます。
きっかけは、複数の友人と将来の夢や希望について語りあった時です。彼らは、多少の違いはあれど大体が世俗に順応して職や所帯を作って美味いもの食べて趣味を謳歌しようといった話で盛り上がったのですが、私は同じ献立を年単位で食べ続けても全く飽きない、結婚は選択肢の一種であり幸せの絶対条件にはなり得ない、魂を揺さぶるほど打ち込めるものがないとのたまう有様で、友人に相当びっくりされてしまい、挙句「それ生きてて楽しい!?」と言われる始末。
後で改めて思い返したのですが、自身の将来については「生き恥を晒したくない」「老けるほど生きるつもりはない」「社畜になりたくない」といった消極的な考え方はしてきたのですが、自身のこだわりがさっぱり掴めないため積極的な目的が思いつかないと思いました。
というか、三大欲求ですら、食欲、性欲が壊滅している状態で自分の嗜好が分かるわけないと今でも思っています。
私は、死ぬことそのものには特に恐怖は感じないのですが、このまま目的もなく生ける屍になって環境に飼い殺されたまま苦痛だけ享受しつづけるのはあまりにも忍びないと思っており、それなら一時の激痛を耐えてでも息の根を止めた方が幸せなんじゃないかなぁと思っています。
ただ悲しいことに私の魂の中にはまだ僅かながら人の心が残っているらしく、私の自死で周りの人が悲しむことに執着したまま考えることをやめてくれません。
父母には捌き切れないほどの欲は猛毒になりかねないと説かれましたが、欲求がないばかりに生きる原動力が生まれない今の状況もこれはこれですごくつらいです。
何かを好きになる、目的にするにはどうすればいいんですか。叶うならば、その方法を教えていただけると幸いです。
それが叶わないならば、出来るだけ楽に死ねる方法を教えて欲しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生ける屍が蘇る道
ご相談を拝見しました。
あなたの魂の叫びを感じます。
そして良い問いを持たれましたね。
生きる意味を失ったとおっしゃいます。
もしも、本当の生きる意味を私達が持つとしたら、失う事が始めにあると思います。
そして振り返って観ると、実は本当に生きる意味を、わたしは未だかって持つた事が無いことにおもい至るのではないですか。
考えてみて下さい。本当の生きる意味は世界そのものです。小石ではありません。
わたしを包み込む世界そのものを、どの様にして失うのでしょうか。
あなたが生きる原動力と表現される所の使命は、問いを持って尋ねる生活によってのみ開かれると感じます。
大きな苦しみと痛みを感じるでしょう。
しかし案ずる事はありません。
あなたの内部が広く深く成長する痛みだからです。
この痛みを安易な答えや楽と引き換えないで下さい。
苦悩するこの身を大切に。
質問者からのお礼
ありがとうございます。桃川様のお言葉に大変勇気を頂きました。
実は、今回の件をきっかけに腹を割って親に自分の悩みを相談したのですが、「自我の目覚め」と言って大変喜んでくれてとても驚きました。
これまで、両親は思考を捨てて大いなる流れに乗ることだけを考えたと思い込んでいたので、既存の生き方や社会の枠組みに反逆するような姿勢は憚られるものだと身構えていたのですが、胸の奥につかえていた本音を尊重してくれてとても清々しい気分です。