私の理解されにくい考え方や気持ち
私は高校生です。本を読み漁っても曖昧なヒントしか得られません。「人は人を殺してはならない」というのは分かっているし、人を殺めることに肯定的な訳でも加害者を庇う訳でも無いけれど、加害者の生い立ちや事件の背景を見た時に、とても悲しくなるのです。(快楽殺人とは別)
ニュースやマスメディアでは表面的に事実を淡々と言い、加害者を責めます。みんなどこか他人事のように感じるのです。
でも、もし、誰かが加害者の背景を事件の裏みたいなものを見れていて、そこに愛や差し伸べられる手があったのなら、何かが変わっていたのかもしれない。生まれながらに悪い人なんていないし、なにがこの人を歪めてしまったのだろうと考えるのです。
繰り返さないためには咎めるのではなくて、愛を持ち続けることでは?
貧困や虐待など、社会全体が目をそらさないことだと思うのです。
なぜ人を簡単に殺めるの?という人がいるけれど、じゃあ、なぜそこを追求しないの?と思うのです。私は加害者の育った環境は大いに影響していると考えるからです。もしも手を差し伸べることが出来たなら、被害者の人生も加害者の人生もこんな結末にはならなかったのでは?と無念の涙が止まりません。高校を卒業したらなにか私にできないだろうかと思います。
私はこのことを言ったりすると、誰もが顔をしかめます。私は私の話を理解できる人に出会えたことがありません。理解されない時のひとりぼっちのような寂しさが辛いです。
私の考え方が変わっているから、みんなに合わせなさいと言われます。私は普通なのに。
学校は苦痛で同級生とは話が合わず、悲しさと自分の至らなさと無力さに苦しんでいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
とても大切な視点です
こんにちは、初めまして。
私は、あなたが言われていることに、全く違和感がありません。あなたの仰ることはごもっともだと思います。「私は普通なのに」と言われている通りです。
確かに、犯罪に至るその加害者の生い立ち、生育環境は関係しているでしょう。貧困や、両親からのネグレクトなど諸要因はあります。ただ、こういった犯罪の原因ついて論じる時、環境によるものか、或いはその人自身の生まれ持った気質によるものなのか、その両方なのかは犯罪心理学の中でも意見が分かれると思います。それでもあなたの問題意識は重要だと思います。
これは仏教の考え方ですが、人間は思ってはならないことを思うし、してはならないこともするし、言ってはならないこともするものです。その意味では人間は同質です。それが、社会的な場において上手く制御できる人と、そうでない人がいるのが現実だと思います。つまり、犯罪を犯すという事は誰にとっても無縁ではないはずなのです。むしろ、自分は犯罪(或いは犯罪者)と無縁と考えることの方が、私には不自然に思えます。
私は、以前、少年院で入所している少年の相談に乗る面接活動(篤志面接委員)をしていました。その時に出会った少年たちは、会ってみても話してみても普通の青年でした。罪を犯したからといって、特異な人間がそこにいるという印象ではありませんでした。
犯罪を繰り返さないためには、あなたの言われれるように、咎めるより愛というアプローチもあるでしょう。一方、咎めがないと社会が統制できなくなるというリスクもあります。それをバランスよく現実的に具体的に関わっていくことが今後できればいいですね。
あなたのその問題意識はとても大切です。
勿論選択はご自由ですが、これから学問として或いは、職業として、それとも何らかの活動などに反映できるといいですね。それぞれの分野にはあなたのことを理解してくれる人が沢山いるはずですよ。
参考になれば幸いです。
質問者からのお礼
回答をもらい、色々考えました。
私の考えも大事にしていいんだと思い、これからも大事にしつつ、周りの人の意見もこんな考え方があるのか〜と耳を傾けるようにしようと思いました(^^)
本当にありがとうございました。