ある武道家の発言に憤りを感じています
私はある武道を習っており、先生方の指導を仰いで稽古に励んでおります。
そんな中、界隈では有名な武道家のTwitterにおける発言に、表現し難い苛立ちと憤りを感じています。
内容は以下のとおりです(部分を伏字にしていますが私個人が特定されるリスクを覚悟の上で書き込みます。そこまでの心中であることをお察しください)
「○○連盟、△△連盟、□□連盟✖️✖️部、各々のトップは私を講師に招き、真の(武道の名前)を知れ。
今の(武道の名前)は( )にも劣る。ハッキリと明言しよう。[ ]にも劣ると。」
この武道家はテレビなどのメディアにも多く出演されており、ご存知の方も多いと思います。
確かに、すばらしい記録と技術を持っておられます。
しかし当該武道の各連盟に対し挑発的な態度と、自分の流派・自分の技こそが真であると主張する発言に憤りを感じずにはいられません。
各連盟の先生方だけでなく、そこに所属する我々までも「劣る」と言われているようで、稽古に励み鍛錬を重ねているであろう人たちを見下したような物言いに穏やかならぬ気持ちとなっています。
本件以外においても、ご自身が当該武道の代表であり全てであるかのような発言が目立ち不快感を覚えずにはいられません。
“怒り”の感情は毒であり、制御すべきものであると承知しております。
武道におきましても「巌の身」という、物事に動じず平常心を保ち、揺るがない心を持つことを示す言葉があります。
しかしながら本件につきましては、どうにも気持ちに収まりがつきません。
この方の考えを支持・傾倒する人も多く尚更です。
本来、自分で受け流し方を考えるべきだとは思いますが、ほんの僅かでもそのヒントを与えて頂けますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
実るほど 頭の垂るる 稲穂かな
こんにちは、初めまして。
武道を研鑽されているとのこと、何よりです。
私は、中高までですが剣道をしておりました。特に高校では、全国でも屈指の師範がおられ、90歳を過ぎても現役で私たちに教えてくれました。
その師範の先生は、とても物静かなお方でした。今から思い出しても、ご自身からものを発せられた記憶がありません。稽古をつけて頂いた後、一言ピシッと改善点を述べられるだけでした。生活すべてに、背筋が伸びるような清清しさが貫かれているようなお人でした。
浄土真宗の信仰の歌ですが、「実るほど 頭の垂るる 稲穂かな」というものがあります。表面上謙遜して頭を下げてみる、というのではなくして、仏様の前に立つことを意識する人は自らの卑小さを知らされ、その卑小なる者が慈悲を掛けられていることに感謝する。さすれば、自らを誇らずして仏様にただ感謝し、頭が自然と垂れるように育てられるということです。
充実すればするほど身の程を知り、天狗になって不平不満を言うより、ただ感謝をするようになるのが人間としてあるべき方向だと思います。
仰るように、怒りの感情は制御すべきものでしょう。しかし、それは自分の内面における葛藤、抑制についてだと思います。宜しくないものを宜しくないという、正当な判断にまで適用すべきでしょうか。
あなたの今後に、ヒントとなれば幸いです。
「自分を殺しにきた相手と、、、」塩田剛三
あなたは、合気道養神館の創始者にして、昭和最後の達人と謳われた塩田剛三先生をご存じか?
ある時、弟子が「合気道で一番強い技はなんですか?」と尋ねた。すると塩田先生は、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることだ」と答えたそうな。これは合気道だけの話ではなく、ありとあらゆるの武道の真髄だと私は思います。
件の有名な武道家さんとやらは、きっと商売上の煽り文句で言っているだけでしょうね。プロレスのマイクパフォーマンスみたいなものだと思い、笑ってゆるしてやりましょう。もし、本気でそんなことを言っているとしたら、逆に哀れなものです。常に「上には上がいる」という事を忘れて【血気の勇】を戒められなくなってしまった武道家は、それは武道家ではなく単なる乱暴者です。そのうち誰かにやられてしまうでしょう。そんなことにならないように、慈しみの心を以て見守ってあげましょう。
プライドの煩悩は誰にでもある
プライドの煩悩は誰にでもあります。
誰でも、自分は素晴らしい、劣っていないと思いたいし、できれば他人からも尊敬されたいのです。
その人は、プライドの煩悩に酔っているだけです。
煩悩が強い人は、自分自身の煩悩で人一倍苦しみます。
その人は、人生をより苦しくするために武道をやっているのでしょうか。
質問者からのお礼
○釋悠水 様
剣道の先生の凛としたお姿、多くを語らなくとも門下の方々にはその教えが心に刻まれていたことと思います。
そして浄土真宗の教えのお言葉ありがとうございました。
仏様の前では人はどれだけ小さい存在なのか、そして慈悲を頂いていることに気付けば感謝の気持ちから自然と頭も下がります。
「身の程を知る」愚者にして賢者と思っている者ほど愚者であると言います。
そのように考えると件の武道家は、己の卑小さに気付くことのなく仏様の前に立っても己を誇示するような愚者ではないかと思えてきました。
自分を省みることも忘れないよう、稲穂のお言葉を頂戴したいと思います。
○願誉浄史様
「プライドの煩悩」あまりにも有名になり、周囲におだてられることにより自己顕示欲が大きくなっていった故の傲りであると解釈いたしました。
そのことに気付くことはあるのかと思うと憐れにも感じます。
○転落院様
お恥ずかしい限りですが、塩田剛三先生のお話を存じ上げておりませんでした。
「自分を殺しに来た相手と友達になる」道を追求し極めた方だからこそ”真の強さ”とは何か、単純に力や技などではないことを悟られたのだと思いました。
しかし件の武道家は残念なことに”最強になるための力および技”を主たる目的とし、自分の考え方に反する者はすべて敵と捉えておられるようです。
慈しみよりも憐れみの心となりそうです。