不妊治療の末、死産
先日、不妊治療の末授かった娘を死産しました。
不妊治療も辛く大変でしたが、愛する子供を失うというのは、
言葉で言い表せないぐらいの苦しみでした。
なぜ自分ばかり?と思うのは自分勝手なのでしょうか。
これも、仏教でいうところのカルマや試練の一つなのでしょうか。
私は、前世そんなに悪いことをしたのでしょうか。
赤ちゃんは天国で見守ってるよとか、
またどこかで巡り逢えるよとか、
そう言われるのですが、いまいちピンと来ません。
娘は亡くなり、灰になったのですから。
(失礼な言い方でしたら申し訳ありません、輪廻転生は信じております)
悲しみの中混乱している私に、何か仏教のお話をご教示頂けましたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
キサーゴータミーの説話
つらい思いをされましたね。でもどうかご自分を責めないで。
仏教の話ということで、キサーゴータミーの説話というのを紹介します。
以下はインターネット寺院「彼岸寺」さんサイト
http://www.higan.net/
からの引用です。
あるとき、かわいがっていた赤ちゃんを亡くしたゴータミーという母親が、亡くなったばかりの赤ちゃんのなきがらを抱えたまま、「子供を助けて下さい。」と叫びながら町中を歩き回っていました。
赤ちゃんは既に息を引き取っているので、街中のどんな医者からも「その子は死んでいる、治せない」と断られます。それでも子供の死を受け入れられないゴータミーはお釈迦様のもとに足を運び、同じように「治して下さい」と懇願しました。
するとお釈迦様は静かに
「この子供を治すには、ケシの実を持ってきなさい。ただし条件が一つあります。いままでただの一人も死人を出したこともない家に生えているケシの実を持ってくること」と言いました。
これを聞いたゴータミーは喜びました。
その足で急いで街中あちこちケシの実を探しました。
ケシの実自体はあちこちに生えているものですので、軒並み目についた家を訪ねました。
しかし、どの家でも亡くなった人を送り出した経験があります。
「うちは去年、爺さんを亡くしたよ」
「3年前、流行病で息子と嫁が死んださ」
「ダンナはこの間殺されたよ」
と行く先々の家の人に言われました。
そこではじめてゴータミーは、人は必ず死ぬ。どの人にもどの家にも死という別れは必ず訪れるんだと気が付き、自分の子供の死を受け入れることが出来ました。
こんな話です。
今は辛く悲しい時ですが、泣くことで心は回復します。娘さんのためにたくさんたくさん泣いてあげてください。