2回目の死産をして
2回目の死産しました。
1回目は約4年前に子宮内感染で死産。その後に1人、無事に出産できましたが今年の7月に妊娠8ヶ月でお腹の中で心臓が止まっていました。
ようやく1人目の死産はどうしようもなかった、と思えていた矢先でした。(性別が違うかったため、あの子はもう帰ったことないんだ。と諦められたところでした)
1人目の死産を経験しているため、頭のどこかに「また死産するかもしれない、その時は仕方ないと思ってしまうかも」と考えていました。
考えていたことが現実となり、1人目の時ほど取り乱さずにいて、死産した2人目のことを考えずに過ごす日が多くなりました。
なぜ、どうして。と泣いても叫んでもあの子は帰ってこない。と思っている自分がいて、涙を流さずに過ごす日々に違和感を感じています。
ただ、何故8ヶ月まで大きくなったのに亡くなったのか(臍の緒のねじれが恐らく原因でしょうと言われているのでそれまでなのですが…)
何故、お腹に来てくれたのにいなくなったのか、
来てくれたら意味はなんなのか?
と答えのない理由ばかり考えてしまいます。
どのように心を落ち着かせたら良いのでしょうか?
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたが今もママだから、こんな感情になるのですものね。
お身体、ゆっくり休めてくださいね。
涙が出ることだけが、悲しみではありませんから。望んだ子なのだもの。死産を経験して、平気な人なんていない。どんなにショックだったことかと思います。お子さんに会いたかったわね。抱きしめてあげたかったわね。
お一人目のときは、取り乱されたのですね…。
そうよね、とても受け入れられず、なぜこんなことにと自分を責めたり、ごめんねと謝ってばかりだったのではありませんか。原因があったとしても、誰も何も悪くなくても、やっぱり私がもっと気をつけていたらと、生きていくことも苦しかったと思います。
あれから、ご夫婦で一緒に乗り越えてきたのですよね。身体を労って、ようやく妊娠できたのに、どこか不安で。
今回のこと、この結果になるのがずっと怖かったと思います。絶対守ってあげたいって気持ちも強かったでしょうけれど、失う悲しみに苦しまないように、安心できず不安の中で過ごして来られたのではありませんか。
私も同じ経験があります。
8ヶ月。あなたをママにしてくれた子だったのね。
まだ、身体が覚えていることでしょうね。この前まで、お腹で生きてくれていたのに。一緒に鼓動を感じてきたのに。いっぱい話しかけてきたのにって。夢だったのかって、こんな事実、信じたくないですよね。
あなたが、お子さま達を愛してきたこと、伝わってきますよ。この世に誕生するだけが命ではありません。この世じゃなくても、ひとたび生を受ければ、ずっと生きていける。仏様なら、そんないのちに変えてくださいます。それが仏様の願いですよ。私はね、仏様の願いをいただいて、あの子が待ってくれていると、ようやく安心に思えるようになってきました。手を合わせると、涙が出てきて安心できるのです。私と会えるまで、仏様が育ててくださっているって、そう思えるようになりました。
あの子に会いたいもの。名前を呼んで、抱きしめてあげたいから。私は手を合わせて生きてきました。
仏様には、甘えてもいいんじゃないですか。泣きたい時も、泣けない時も、あなたが今もママだから、こんな感情になるのですものね。2人の大切ないのちを慈しんで、私もこちらから手を合わせますね。
私は、大阪で遺族会を開催しています。どんな人でも、どんな命でも、亡くされた想いを大切に聴かせてもらう場です。あなたはひとりじゃないですよ。
二度の死産を経て揺れる心と、答えのない問いとの向き合い方
あなたが今感じているのは、深い悲しみであると同時に、心の自己防衛反応でもあります。
1人目の時に取り乱した経験があるからこそ、今回は涙が出ない日もある。その違和感は、感情がなくなったのではなく、心がこれ以上壊れないように守ろうとしている証です。
1. 涙が出ない日があっても、それは「冷たい」ことではない
仏教では「悲しみの形は千差万別」と説きます。泣く、声をあげる、沈黙する、日常に没頭する。どれも悲嘆の一つの表れであり、正解や不正解はありません。
涙が出ないのは、愛情がないのではなく、心が一時的に感情を閉じているからです。
2. 「なぜ」という問いとの付き合い方
臍の緒のねじれという原因を聞いても、「なぜ8ヶ月まで元気で、今になって」という問いは消えません。
仏教では、世の中の出来事には「因(原因)」と「縁(条件)」があり、どちらも私たちが完全に理解しきれるものではないと説かれます。
「理由がわからないまま抱えて生きる」のもまた、人としての修行の一部です。答えを無理に求めず、「今はわからなくてもいい」と心に置くことが、少しずつ呼吸を楽にします。
3. 来てくれた意味
赤ちゃんはあなたの体の中で確かに生き、あなたの命とつながっていました。その時間そのものが意味です。
仏教では、どんなに短い命も「縁の花」として、誰かの心に種をまきます。
今回の命があなたにもたらした思い。家族への感謝や命の尊さの再確認。それが「来てくれた意味」になっていきます。
4. 心を落ち着けるための小さな実践
・命日や月命日に静かに手を合わせる
仏前や小さな花を飾って語りかける習慣は、心の整理に役立ちます。
・思い出を書き留める
泣ける日も泣けない日も、赤ちゃんへの手紙を書くように。言葉にすることで心の渦が少しずつ静まります。
・同じ経験をした人との分かち合い
語ることで、自分の感情の輪郭が見えてきます。
結び
二度の死産は、言葉にできないほどの大きな試練です。
ですが、仏教では「どんな出会いも別れも、縁あって起こる」と説かれます。短いけれど確かにあった命との縁は、これからもあなたの心の中で生き続けます。
悲しみは消えなくても、あなたがその命に感謝できる日が、少しずつ訪れますように。
合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。
命の縁は心の中で生き続けること、会えるまで仏様が大切に我が子を育ててくださると考えると少し哀しみが和らぐ気がします。
生きて会うだけが全てではないですよね。