自分の心の痛み、感情、不安への接し方
たくさんのご質問がある中、お忙しいと思われますがご回答いただければ幸いです。
一ヶ月ほど前にコロナウイルスの影響がきっかけで、結婚を意識していた人に別れを告げられました。
一ヶ月かけ自分の悪かったところを反省し、自分の良く出来たところを認め、相手の幸せを心から祈ることが出来るようになりました。別れ自体を前向きに捉えられていると思います。
それでも正直、完全に立ち直れたとは思っていないのですが…。
その矢先にとても身近な人同士が付き合い始めたと報告を受け、祝福したいと思ったのですが、どうしても素直に祝福することが出来ませんでした。
身近すぎる故に私がするべきでない余計な心配をしてしまったことと、自分の現状と比べてしまったせいです。
失恋したことを前向きに捉えてはいるものの、情緒が安定しない今の自分が人を心から祝福することは難しいと頭では理解しています。
それでも祝福出来なかった自分のいたらなさ、コロナウイルスへの不安、将来への悲観など、なんとか立ち上がろうと思うと同時に、それらで心が折れてしまう自分がいます。
今この世の中に私よりももっと大変な状況の方が溢れていることを思うと情けないと思うのですが、どうやって自分の心を保てばいいのか、お知恵を貸していただけると助かります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心とはどうにかなるのか
ご相談拝読しました。ご結婚まで意識されていた方との別れは本当にお辛い事であったと思います。
さて、ご自身の心との向き合い方についてのご質問ですが、心とはどうにかなるものなのでしょうか?そしてどうにかしなければいけないものなのでしょうか?
「心の時代」なんていう言葉もあり、物質的豊かさから心の豊かさが重視される傾向において、いつしか人は心こそ本当の私であり、心の豊かさこそ本当の幸せであるという価値観に覆われているところがあるかもしれません。
しかし仏教的にみるならば、私も心も体も「因(直接的原因)」と「縁(間接的原因、すなわち条件や環境や対象)」に条件付けられるものであり、確固とした実体のないものであります。
簡単に言えば、「私のものでないので思う通りにならないもの」なのです。
たとえばタンスの角に足の小指をぶつけたら痛いですよね。でもあなたはそれで「何で私はこんなことで痛がるのか」と自分を責めはしないでしょう。それは「不注意」などの因・縁から「足の小指をぶつける」という果が生まれ、そして今度はその「足の小指をぶつけた」という因・縁から「痛い」という果が生まれたのです。そうなるのは当然である法則です。
では、「結婚を意識した相手と別れた」という因縁にもよおされたあなたにはどのような果が生じるでしょうか。
何が言いたいか分かりますよね?
あなたが今、心を保てないのも、他者を祝福できる心の余裕がないのも自然であるということです。
だからそのようなあなたが「ダメ」とか「至らない」とかいうことはありません。厳しく言えば、むしろ「そのようになるはずのない自分」という「自分の理想の自分」にとらわれている過信がそこにはあるのです。
人間は因・縁にふり回される弱き存在なのです。そのことを知りましょう。
それと同時に、だからといって振り回されっぱなしでいいわけではありません。「祝福の気持ちになれない」は「祝福しなくていい」とイコールではありません。
心に浮かぶ感情は因縁により起こってくるものですから思い通りになりませんが、それによる行動までも支配されてしまうと人は自暴自棄になったり、ふさぎ込んだりしてしまいます。
自然な感情は自然なものとして認めつつ、どう行動するかはあなたが主体的に判断できるといいかもしれません。もちろんそんな余裕すらないこともありますが。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
分かりやすい例え話と教えで、不思議なほど素直に理解出来たように思います。
自分の中にばかり原因を探してきましたが、それは自分への過信だったのだと気づくことが出来ました。自分の弱さに気づき、自分への期待を手放せるように意識しようと思います。
今の感情、今のつらさはありのまま受け入れて、まわりへの感謝を忘れずに行動しようと思います。
こちらの気持ちに寄り添うようなご回答、本当にありがとうございました。拝見した時、深く納得し、優しさに触れたように感じられて涙が出ました。お礼が遅くなり申し訳ありません。
大変な状況ではありますが、何卒ご自愛ください。本当にありがとうございました。