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振られて諦めたのに頭から離れず苦しい

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有り難し有り難し 12

両思いにはなったが付き合えなかった男性がいて、フラれたあとも頭から離れず、
仕事や趣味の時間を増やしても、他の男性とデートをしてみても、
その彼のことばかり考えてしまい前に進めません。

相手は元同僚の男性で、再会して食事をしたあと、頻繁に連絡を取り合うように。
趣味嗜好・縁のある場所・過去の経験など共通点がとても多く意気投合し、気づいたらかなり好きになってしまいました。
デートをしようという話はするしお互い好意があるということも伝えあったのですが、付き合うという話には至らず。

お互いの時間が合わず、2人で会えたのは初回の食事含めて2回程度。手も繋いでません。

私は自分の過去の大病が原因で妊娠出産ができないため、その事のコンプレックスが強く、恋愛には恐怖心があり、あと一歩踏み込めずにいました。

そうこうするうちに彼は昔の恋人と復縁することにしたからと、フラれてしまいました。

ショックでしたが彼には幸せになってほしいと思ったし、もし私と付き合えてもうまくいかなかったかもしれない、これでいいんだ仕方ないと諦めたつもりでした。

その後しばらくして彼から電話がかかってきたり、ブロックされたり、、と振り回されるような行動を取られたものの、なかなか嫌いにはなれません。

ふられて2か月ほど経ち、私も趣味や仕事にうちこんだり、
予定を詰め込んで考える時間を無くすようとにかく行動しました。

もう会う機会も連絡手段もないので、すぐ忘れると思ったけど、
ふとした瞬間、1日に何度も、彼のことを考えてしまう自分がいます、、電話が鳴ると彼からではないかと一瞬期待してしまいます。

他の男性とデートしても彼のことを考えてしまい、新たな恋をする気持ちにもなれません。

会った回数や期間は少ないのに、こんなに引きずっていることに自分でも驚いていて、
この執着心を抱えた日々が苦しく感じています。

この苦しみから早く逃れるにはどうしたらいいのでしょうか。
私の行動がまだ足りないのでしょうか。

2024年5月28日 9:38

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

納得のいく理由付けを必要としている心理にある

つらくなったらタイトルを何度か復唱してみてください。
振られるという言葉は人を傷つけますからそういう言葉を使わない方がいいと思います。
別に否定されたわけでもなく、拒否されたわけでもなく、お互いの歩寄りが足りなかっただけのことなのですから、フラれたわけじゃぁありません。
雨だって今日は関東は雨でしょうが、フラれるわけでもなく注がれていますし、恵みの雨ですし、梅雨入りですし、空気もきれいになりますよ。
だから、あなたもフラれたんじゃァなくて、自由になれて、今後の新しい出会いに突入できて、おたがいもやもやした意思疎通がはっきりできない相手と自由に離れ離れになれたわけですから、おめでとうございますな一面も大いにあるのですから、執着を捨て去ることです。
執着を捨て去るためにこそ、自分の尊厳を傷つけないためにもフラれたとか言わないことですよ。
相手は相手でその元カノさんに帰って行ったのですからそれはそれでおめでたいことです。
そもそも付き合っている時点でブロックまでしてくる、影に元彼女、他の女性の存在あり、あなたをそこまで愛してくれるわけでもない相手なのですから、仮に結婚しちゃったとしても後々モラハラや家庭崩壊の可能性だってないわけではないでしょう。
あなたは幸いにしてその思わせぶりな彼氏から自由になれたのです。
男性も女性も生命としてパートナーを探す働きはあるわけですから、そのセンサーが誤作動を起こしてしまっただけのことです。現実にお互いに幸せになれてこなかった以上は、それが正しい現実なのですから、あとは単なる未練だと思い、思い切る、あきらめる、断ち切る、思い起こしてもそれは生命のサガなのだと深く干渉しなければいいだけのことです。
世の中を見てください。このハスノハの恋愛相談コーナーの地獄絵図を見て回ってください。みんなこの人こそは、この人こそは、この人こそ運命の人と勘違いして地獄の苦しみを味わってしまうのです。そこまでどろどろにならなくて済んだだけでもラッキーでしたよ。(´ー`)✨
おめでとうございます。
あなたは自由になれたのです。
そう思うようにしてみてください。
そのぐらい恋愛の執着というものは、こだわり粘着ネバネバ度数が高いものなのです。後は、タイトルにも記しましたように、あなたが納得のいく理由を見出せればいいのです。

2024年5月28日 10:18
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。なんだか心がスッとしました。たしかにフラれたというのとは違うなと思ったので言葉を変えていきます。おっしゃる通り恵みの雨かもしれません、自分磨きに精を出していきます。
脳裏に顔や言葉がよぎったり夢に出てくることもあるのですがこれからは迎え撃てそうな気がします。

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