殺される人は因縁がある?永遠に苦しむ?
周囲から善人と言われている人も、殺される人は殺されるべき因縁があるんですか?
[不慮の死]は殺された人に落ち度はないのですか?
恐怖と痛み、苦しみの中で殺されていった人は永遠に苦しみますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
この世は、すべて原因と結果、そしてその結果がさらに原因となり・・・。
ただし、どこかの時点で、その結果を善き原因に変えれば、その結果は善き結果になるでしょう。
その善き原因を作るために、人間として生まれてきたのです。
ゆえに、今の目の前に展開されている結果の原因は、今生のみならずです。
このような解釈をするには、生まれてきた、すべての環境、国、親、兄弟、あらゆるものには偶然はない。となります。さらに、過去世があれば来世もある。と思います。それを信じるかどうかは自由です。
そして、ただ、我々(私が)想像するような仕組構造ではないのかもしれませんが、そう思います。
ご質問の
>恐怖と痛み、苦しみの中で殺されていった人は永遠に苦しみますか?
肉体的な痛みは肉体がないので苦しくないでしょう。
しかし、心(意識)の次元では、その原因が解決されなければ苦しみ続けるかもしれません。
ゆえに仏教の教えがあるのではないでしょうか。
非業の死というものもあります
拝読させて頂きました。
様々な巡り合わせの中で事故にあったり、災害にあってしまったり、事件に巻き込まれてたり、他のものから傷つけられたり殺されたり、テロや戦争によって殺されたり死ななければならない方もいらっしゃいます。
それら全てその方の行いのせいかどうかは私達人間にはわかりません。たまたま遭遇してしまうこと、たまたまその時代にその場所に生まれて生活していたから、たまたまそこで仕事をしていたから、たまたま悪意や悪縁に巻き込まれてしまったからかもしれませんし、もしかしたらその本人に原因があったかもしれません。
非業の災いや死というものもあると思います。本人以外に原因がある場合もあるのです。もしかしたら前世での行いがそうさせたということもあるかもしれませんが、私達にはわからないのです。
とはいえやむを得ずそのような巡り合わせにめぐり合ってしまったということもあるとお考えなさってみてはいかがでしょうか。
仏様は必ず全ての方を苦しみや迷いや恐怖から救って下さいます。そして全ての方を仏様のもとにお導きなさって下さいます。仏様は全ての方が安心して下さるよう導いて下さいます。そして全ての方に真理を教えて下さり円満に悟りを開かせて下さり成仏させて下さいます。
あなたもどうか清い心で仏様を信じて下さいね。あまたお亡くなりになられた方々が必ず仏様に救われて心安らかにご成仏なさいます様お願いなさって下さいね。仏様はあなたの思い私の思いを必ず受けとめて下さいますからね。
あなたがあまたの霊に見守られて心安らかに幸せにあなたの人生を生き抜いていかれます様切に祈っています。
ご質問ありがとうございます。殺されたり死に至る「非業の死」はお釈迦様がお説きになりましたように「その悪業を原因としない突発的な死」がである、そして「業が全ての結果をもたらすものではない」という考えです。とはいえその巡り合わせや縁については私達の想像できない遥か超越したものかと思います。ですからたまたま巡り合わせによるやむを得ない死はあるのです。
これからも清い心でお釈迦様の教え・仏教を共に学び、共に精進して参りましょうね。至心合掌 南無釈迦牟尼仏
【いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって】
"殺される人は殺されるべき因縁があるんですか?"
ある。
【さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。】『歎異抄』
誰もがひとたび【業縁】が催してしまえば、何をしでかすかわからない、極めて不安定な存在なのです。
"[不慮の死]は殺された人に落ち度はないのですか?"
ある。
しかし、この点については、一般的な法律や一般常識とは基準が異なる。
"苦しみの中で殺されていった人は永遠に苦しみますか?"
はい、苦しみます。
気の毒に思いますか?そんな馬鹿な、そんな理不尽なと思いますか?もしあなたの中に、そう思う慈悲の心が起こったならば、あなたも急いで仏になってみんなを片っ端から救ってやってください。
一緒にがんばりませんか?
質問者からのお礼
転落院先生、鈴木先生
返信ありがとうございます。
私自身、偽善者で自分の身や身内の身を心配するあまり(その身内の身も自分のためなのだと思う)周りに迷惑かけないからこちらにも何も構わないでくれと思ってしまう気持ちがあります。
殺されるのが怖い、死ぬのが怖い、怖いから攻撃する、怖いから関わらないと気持ちが動いてしまいます。
思えば幼い頃から怖がりで今までは親兄弟が守ってくれていたが、これからは私が守らねばと見えない敵とたたかっているようでなりません。
まだまだ修行のしの字も書けていません。
先生方のお言葉を頂き再び歩んで行こうと思います。
ありがとうございます。
Kousyo Kuuyo Azuma先生、返信ありがとうございます。
人間の立場から思考する非業の死と、お釈迦様の説かれる非業とは意味合いが違うのでしょうか。
油断するとすぐに現実、事実、感情がぐるぐると渦巻いて取り込まれそうな感覚に陥る時があります。
まだまだ清らかな水の流れの如し安寧を求めている自分がいます。
手を合わせ続けます。