心が折れかけています。
お坊さまは仏法を信じて信念に基づいて行動されていると思いますが、それがまるで通用しない相手に出会ったときにどうお気持ちを保たれますか?
こんなこと大変な修行を乗り越えてこられたお坊さんにお聞きするのは失礼かもしれないのですが。。
私は若い頃に母が自殺で亡くなり、いっときネットなどではありますが仏教に触れて気持ちを落ち着かせていた時期がありました。
そのときに覚えた色んな教え。。断片的ではありますが、それらがいつのまにか心の支えになり心地よい自制心となっていつも静かな透き通った気持ちでいられました。
でも4年前今の会社に入ってからはどんなに清く穏やかにいようとしても、まわりに通用しなくて時々ばからしくなってしまうことがあります。
頑張ればもっともっと仕事をさせられて、周りの人たちは談笑しているだけ。
報連相を守っていても、やらない人がほとんどで連携がめちゃくちゃでトラブル解決も時間がかかります。
挨拶をしない人も多くて驚いています。
でもそういう人は、いちいち挨拶する人間の方が信用できない、ほっといてほしいと言っています。
そして話を聞いたり態度を見ている限り、みんなは適当にやっていたくて私の方が厄介みたいです。
信念なんて意味がない。。まわりと同じように染まった方が社会では生きやすい。。そんな風に考えるようになりました。
最近愚痴が増えて人を見下す言葉も平気で出てくるようになりました。
励ましてほしくて友達と会っても、友達も私に比例するように愚痴っぽくなり傷の舐め合いだけの時間が過ぎて、会った後虚しさに襲われます。
きれいな景色を見ても心が動かなくなりました。
もうなにが正しいのかわかりません。
なにかお言葉いただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「信念」を考える
こんにちは、初めまして。
お仕事場のことで特にお悩みのようですね。
真面目に、一生懸命に職に当たろうとするお気持ちが伝わってきます。
宗派によって考え方は違うことを前提にお聞きください。
私は浄土真宗から申します。
「仏法を信じて信念に基づいて行動されている」とお書きですが、私は若干違和感を感じます。むしろ仏法を聞けば聞くほど自分の「信念」たるものが、むしろ自分を苦しめていると教えられます。その「信念」の正体は、どこまで行っても煩悩という自己中心的な視点から生じる思考であり、行動であるからです。
冒頭に書きましたとおり、あなたはとても職務に忠実なのだと思います。職にあるものはそうあるべきです。ホウレンソウも、挨拶も必要です。あなたの仰ることに全く異論はありません。ホウレンソウが生かされていないのは、上司の責任も大きいでしょう。
ただ、その上でお考えいただきたいのは、「みんなは適当にやっていたくて私の方が厄介」という周囲対一の状況が何故出来ているのか、ということです。恐らく、あなたは相手に、こうあるべきだという「信念」に対して相応のリアクションがないとその度に言葉や表情に出しているのではないでしょうか。不満という思いは自然と相手に伝わるものです。
あなたの「信念」のコミュニケーションが、相手に正解を強要しているのではありませんか。もし不正解だったら不満げな反応があなたから返ってくるならば、他者はあなたとしゃべり辛いでしょう。会話のたびに、○×判定をされているように思うのかもしれません。
真っ直ぐな木は、見た目は立派ですが折れやすいです。
しかし、柳の木はどうでしょう。しなやかですね。
相手にもそれなりの理屈があるのだと譲って尊重し、しばらくは物申さない、すぐに他のことを考えるという試みが少し必要な時期かもしれません。
「なにが正しいのかわかりません」とのこと。
あなたは、正しい道理(ホウレンソウ、挨拶など)をご理解されています。肝心なのは、他者にも相応の「正しい」「信念」があるという事実に気づくことだと思います。そして、その事実を時にしなやかに受け流しつつ、でも芯をしっかりと持つ。そういう現実に即した、もう少し心に余裕を持った生きやすい方法を少しづつ模索して頂ければ、と思いました。
ご参考になれば。
マイペースでお仕事頑張ってください。
質問者からのお礼
釋 悠水さま、ありがとうございます。
色んなことがなんだか腑に落ちて涙が出て来ました。
たしかに私も他人の「正しさ」を押し付けられたら嫌です。
私はそれと同じことをしてたんですね。
仏法のこともわかったようなことを書いてしまい反省しております。
宗派で違うこともあるのですね。。
でも「信念」と呼ぶには違うようなというお話は、きっとそうなんだろうなと思いました。
柳のようなしなやかでいたいです。
マイペースに頑張ります。
お言葉くださって本当にありがとうございました。