人を疑ってしまいます。
いつもこのサイトを利用させていただいています。
その中でお坊さんから返答を頂いているのですが、その返答を完全には信じられない自分がいるのです。
例えば「懺悔をすれば罪はなくなる」というような返答を頂いた場合、
本当に大丈夫なのだろうか、この人も実際見たわけではない。間違っているのではないだろうか。と疑ってしまいます。
疑ってしまうたび、せっかくお答えしていただいたのに、と申し訳なくなってしまいます。
どうすれば人の考え、教えを信じられるようになるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分自身の生き方に誠実であればこその「疑い」でしょう。
こんばんは。亀山純史と申します。
私たちからの回答に対して疑いを持ち、さらなる問いを発することは決して悪いことではありません。疑いを持ち、さらなる問いを発することは、自分自身の生き方に誠実である、ということの表れではないでしょうか。
浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」と述べられております。「仏願」とは阿弥陀仏の本願のこと、「生起本末」とは本願が起こされた由来と、その願いは成し遂げられ、現に私たちをお救いになるためにはたらいていることを言います。そして、それを聞いて疑いが晴れた状態を「聞く」というのだと言うのです。つまり、私たちが仏様によって救われていくには、疑いが晴れるまで聞くことだ、ということなのです。
このハスノハにおいても然りです。一回の回答で腑に落ちない場合には、再度、その腑に落ちない点をご相談なさってみてください。そうして、納得できるまで自分自身の問いに向き合ってください。そうすることで、必ずやあなたは成長することでしょう。
先日、回答させていただいた者です返事を頂き有難うございました
「今まで犯してしまった事で迷惑をかけた人、傷つけてしまった人に対してできる事は無いのですか?」という問いをさらに頂きました。蓮の葉の解答は千字で質問1つに僧侶は1回限りという規定があり、言葉を尽くせませんでした。質問者様は誠実だからこそ、ごまかさず何度も聞いて下さったと思います。
懺悔や慙愧というのは罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥する心です。ですから、その心を表現することも大事です。もし本当に悪いと思っていたら、行動になって表れると思います。ですから、傷つけた人や、迷惑をかけた人に対しては謝罪の意思を伝えたりし続けることは大事でしょう。また、罪を繰り返さないようなるべく良い行いをしていくべきでしょう。
しかし、あなたが聞いているのは、そんな表面的な事ではない気がします。親鸞という僧侶は「親鸞は慙愧無き身である」と告白されています。反省等では済まないほど、深い罪を「身」として持っているということです。なぜなら、人は他の命を頂き、それを自らの命として生きていく身です。他の犠牲の上に生きている。お経によれば、本当の懴悔する心があるとき、体中の毛穴からも眼からも血を流すそうです。そういう行法も説かれています(『往生礼讃』善導)。しかし、親鸞は「私は無慙無愧だ」と悲しまれます。懺悔しきれない自分であることを悲しんでいるのです。身と口と心で罪を重ねていく身で、しかも一時的には自己中心の思いに気づかされても、やむおえないことだと正当化してしまう私がいます。ここまで問い詰めいくと、絶望的な私の存在に気づかされます。その救われがたい絶望において、親鸞は阿弥陀仏のお前を助けるという呼び声を聞いたそうです。これは、開き直りや言い訳とは違うのでしょう。本当の慙愧の心すら無いと泣いてひれ伏した時、かたじけなくも阿弥陀仏の呼び声が届いたのだと思います。
ですから、本当に全ての罪を懴悔しようと思う場合、(※浄土真宗の場合)阿弥陀仏に出遇わねばならないと説きます。
しかし、親鸞ほど、深く自分の罪を見つめる事が出来る人は普通おらず、大抵どこかで妥協してしまいます。私もそうだったと、恥ずかしながら、あなたの問いによって気づかされました。全く答えになっていないのですが、もう少し私も勉強します。またその上で答えさせて頂けたら有難いです。この答えは全く不十分だと感じます。申し訳ないです。
質問者からのお礼
亀山純史様 回答ありがとうございます。
皆様から頂いた回答を考えの参考にしながら、自分の腑に落ちる答えを探していけたらと思います。
これからも皆様のお世話になることかと思いますがよろしくお願いいたします。
釈義行様、わざわざご丁寧に何度も回答をしていただきありがとうございます。
大抵どこかで妥協してしまうといわれてはっとしました。
確かに私も、ここまですればいい。と妥協の道を選ぶことがほとんど、いえ全ての過ちにおいて、そのような選択を取っていたことに気づきました。
迷惑をかけてしまった人にできる限りのことを、そしてこれから罪を繰り返さないように努力を重ねていきたいと思います。それ以上に何ができるかまだ私にはわかりませんが、考えながら、日々を過ごしていきたいです。