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事故物件について

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有り難し有り難し 21

家族で住める一軒家を探しています。
敷地内に長年の夢だったお店も併設できる条件で探していたところ、
土地の広さ、値段、雰囲気全て私の願う条件にぴったりのところが出てきました。

ですが、不動産屋さんより
事故物件であるとお話がありました

80年ほど前に、敷地内で自死された方がいらっしゃるとのことです
それ以上の情報は聞いていません

主人は全く気にしていないようです
初めて聞いた時は私も
その亡くなった方にむけてきちんと供養をすれば問題ないかと思い深く聞かなかったのですが

時間が経つにつれ、やはり、商売をしお客様をお招きする場所にもなる訳ですから
大丈夫なのかと不安な気持ちが正直あります。

売主の方に、どのような方で、どういう状況だったのか確認するべきでしょうか。
それとも亡くなった方を想い、供養をすることで消化するべきでしょうか。

事故物件(それぞれ背景、事情があるので事故物件と、一括りにする言い方もあまり好きではないですが)に対するお考えをご教示ください。よろしくお願い致します


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思考や発想を変えて見ませんか?

初めまして、お早う御座います。

私たちが暮らすこの地。何千年と続いて今日があります。そのストーリーの中で、沢山の方がお亡くなりになられています。それらは逆らえない法則なのです。

暮らす地や、通る道にも様々な先人方が眠っていらっしゃるのです。

ご縁があり、その地を訪れたのです。御供養をしっかりとされ日々、負担なく出来るご供養を継続されて見ては如何でしょうか?お亡くなりになられた=縁起が悪いでは御座いません。逆に、純粋に懇ろにご供養をして上げることにより・・ありがとうとご家族やお店を守ってくれる先導をされる事と思います。

縁起よりも、その立地の問題だと思います。人通りはどうなのかな?訪れる方の駐車場を確保できるのかな?など、そちらの方が大切ではないでしょうか?

お亡くなりになられた方は決して、害をあたえたりはしません。こうして欲しい!わかって!と簡単なことを伝えてくるのです。好物だった食べ物が食べたい。大好きだった場所に行って見たい。などです。全てを亡くなった方に結び付けてしまうのはとても悲しい事です。私は、幽霊さんよりも生きている人間の方が怖いと思っています。

思考を変えて見て、視野を広げて見て下さい。一つの問題にこだわったり、心を奪われたり、とらわれたりせずに、自分のインスピレーションを感じ取って見て下さい。第六感というものは、自分だけにしかない良さと仏心と一緒に誰にでも備わっていますが、薄れてしまったりします。直感をしっかりとキャッチされて、夢や希望を一気に叶えようとしたり、結果を求めずに・・一つずつ丁寧にクリアして見てください。希望も夢も捨てない限り逃げていきません。

夢が叶えられて、ご家族で人生と言う冒険旅行を仕合せに描き歩める事をお祈り致しております。

合掌

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永寛
皆様、初めまして。ストレスの多い現代・・お寺とはご葬儀や法事のみではなく、...
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仏教的視点と感覚的視点

こんにちは、初めまして。

「長年の夢」を実現するために、奔走されていることでしょう。
希望とともに、ままならない歯がゆさも感じておられることとお察しします。

あなたのご宗旨がわからないのですが、私は浄土真宗方面から。

私達の宗旨では、亡きお方の最期がどのようなものであれ、阿弥陀如来さまに抱かれて極楽へと往かれると考えます。つまり、成仏は阿弥陀様が全てお取り計らいくださるのであって、追加して人間の方が「亡くなった方にむけてきちんと供養」する必要性はありません。

誤解なきように付け加えますが、これは仏事をしないでもいいという意味ではありません。仏事は、その阿弥陀如来様のお心の深さを聞き続けるという意味で、継続し続ける必要があります。しかし、それは阿弥陀如来様のお心を聞くという目的のためであって、故人の為に何かをする(一般に供養する、に該当する)ことは、浄土真宗においては主目的から外れます。また、その供養する能力が人間の側にあるとも考えていません。

少し長くなりましたが、「供養する」という仏教的な位置づけを説明する必要のため申しました。このご質問の本質は、あなたの、そしてご家族の死生観、死後観と直結しているからです。こういった価値観の中に生きられるか、否かが決断の分かれ目になると思います。故人は、仏国に居るのか、それとも不明瞭な何かであると捉えるのかという根本的な問題です。

加えてもう一つ問題なのは、仏教の教えと人間の感覚的なものは必ずしも一致しないということです。

死を身近に感じることを厭う、遠ざけようとする因習は現代にあっても未だあります。例えば、49日が3月にまたがるのを嫌うという因習が未だありますが、これは4(四六時中)9(苦しみ)が3(身につく)という言葉遊びから来ています。仏教的にはなんら根拠がないと説いても根強いものがあります。そもそも、月の後半でなくなったら、自ずと三月にまたがります。お釈迦様は、月の後半に亡くなってはいけないと説かれたのか。言わずもがなです。

あなたが、そしてご家族が仏教的な(あるいは他宗教でも)位置づけで明確にその故人を位置づけて安心できるなら、仏事をしつつ、その物件に決められても宜しいのではないでしょうか。

しかし、未消化で、一抹の不安を家族の誰かが一人でも宗教的に、感覚的に安心できないのなら考え直されるべきかと

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釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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「事件・犯罪・災害・戦争」問答一覧

戦火とは、生命の灯火なのか?

ここ2〜3年ほど悩み続けてる事なのですが、倫理とか道徳とかといったものは、結局生活が安定した者によるエゴでしかないのではないか、という仮説が頭の中で離れません。 我々は、教育過程で戦争行為に対する嫌悪を嫌というほど刷り込まれます。それ自体は社会が自滅しない為に必要な事として納得しています。 しかし、その事を基軸として戦争行為に走った国や戦地に赴く人々を安直に批判する事に私は納得しきれない部分があります。 というのも、大半の人は戦争をやりたくてやっている訳ではないと思うからです。 情報を得る手段や暇がないので断定はしかねますが、今起きている戦争も二度の世界大戦のように経済的、国際的に追い詰められた者たちが最後の生存手段として選んだものだと思うのです。もし他に生き残る為の選択肢があれば、迷わず武器を捨てて、そっちのやり方で営みを続けるものだと思います。どうしても戦争をやりたい少数の者同士による小競り合いは起こるかもしれませんが、いずれ自滅して鎮火するでしょう。 これは自然界においても同じ事が言えます。動物が脅威に対応する時、まずはそもそも脅威から逃げる事、隠れる事、棲み分ける事を選択します。戦う事は追い詰められた時の最後の手段です。 であれば、対岸の火事を鬱陶しいと思っているだけの自分が戦争なんてやめろと文句を言った所で、何の説得力も持たないと思います。切迫した状況に置かれた彼らにとって、闘争は唯一の命綱です。戦争をやめろという説得は、彼らにとって「飢えて死ね」「1人で死ね」と無責任に言い放つ事にならないでしょうか? 本来救わなければならない筈の者たちを、自分たちの都合で一方的に切り捨てていいのか私は心配です。 ここまで素人の憶測を一方的に吐き出してきたのですが、今対岸で起こっている大火事に対しては、自分より遥かに賢い方々が全力で対応に回ってるものだと思っています。私ができる事はただ一刻も早い鎮火を願い、自国で火が上がらないように営みを続ける事だけです。 ただ、戦争というのが異常行為ではなく、人間、ひいては生命の営みの延長線上で起こりうるものであるとしたら、そして、その上で本気で戦火をこの世から消し去ろうとするならば、我々がやるべきは生命の灯火を断つことになりませんか? 正直なところ、私は自分のろうそくの火加減を見るのも精一杯です。

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戦争が怖いです

こんばんは。 日々戦況が悪化し、報道に占める地政学リスクの比率が増えています。 SDGsは食糧安保に比重が移り、防衛費の増大は当たり前のこととして世の中に受け入れられているように見えます。 タモリさんが新しい戦前とおっしゃったことも話題になりました。 こうした出来事を日々感じると心から悲しく、不安になります。 戦争を抑止するためになにかしたいと思い探しても、ウクライナを支援するという方向では様々の手段が出てきますが、戦争反対、日本の軍備拡張への反対ということはなかなか出てきません。 日米安保に期待できないことや、リスクの増大はわかるのですが、私の育ってきた価値観では、平和を希求し続けることが最大の抑止だと思ってきました。 宗教家や個人は平和を祈るために何ができるでしょうか。 残虐な被害状況をきくとおそろしく夜も眠れません。 もしかしたら来年の今頃はこうして穏やかに過ごしてはいられないのではないかとか、自分の親しい人たちが死んでしまうことや、自分が家族や家を失う姿が目に浮かび、胸が締め付けられます。 戦争の回避は抑止力が全てではなく、外交的な努力が第一です。 自衛のために仕方がないという世論が強ければ、戦争がより近づいてしまうと思うのです。今の風潮ではそうしたことを言いにくい雰囲気を感じます。 平和を祈る人たちとささやかに繋がりたいと思っています。 どうすればそうした方々とお会いできるのか、祈るとはどういうことか、お言葉をいただきたく、書いてみました。

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事故や災害で亡くなった人の遺族について

災害や大事故の遺族はなぜあんなに故人に執着するのかとふと疑問に感じました。あの様子だと故人は成仏するどころか、遺族を見たら浮遊霊や呪縛霊にならないか心配になりました。 私は死を受け入れ、故人に手を合わすことで、時と共に故人がいなくなった悲しみが癒え、苦しみが和らぎ、故人との思い出が刻まれるものと思っています。私は10年前にガンで母を亡くしているので体感的にそう感じます。しかし、遺族を見てると様子が違う気がします。 確かにある日突然、大切な人が亡くなったという悔しさ、悲しさなど色々な感情が複雑に起こってくるのはわかります。でも、ある日突然…ということであれば交通事故、心筋梗塞、脳梗塞も災害や大事故と同様、瞬間的にもしくは数時間で死へ向かうという状況は遺族にとっては同じだと思うんです。 私は阪神淡路大震災の時は14歳で尼崎で被災しました。今年防災センターへ行き、尼崎と神戸では全く状況が違ったこと改めて理解しました。その後1.17の集いの会場にも行きました。尼崎と神戸は被害状況違ったと言われたらそれまでですが、追悼、鎮魂のために祈る人が穏やかに時を過ごすのと同時に執着、執念そういうものも感じました。そして、福知山脱線事故の時と同じ感じがしました。この事故の時は家で掃除してました。13時にテレビつけたら特番流れてて「え?これ何?プラレール?(電車模型のおもちゃ)」って思うほど状況把握できない映像が流れてました。私は現場とは一駅違いです。救急車の音がずっとしていたのを覚えてるし、ニュースで死者数がどんどん更新される怖さを覚えてます。そしてあのマンションが保管されると尼崎なり、JRが結論出した時は驚きました。もう見たくないという遺族、マンションや地域住民もいたのに保存派が粘り勝ちしました。これに関してはJRの初期対応の悪さなど遺族感情を逆撫でするようなことがあったので遺族が怒りをあらわにしたのもわかるのですがニュース見てたら故人追悼よりもやり場のない怒りの矛先を故人を盾にどこかにぶつけているようにさえ感じました。 当事者しかわからないことがあるのはよくわかってますが、こういう状況って故人は安心して成仏できるのだろうか、また追悼施設や追悼会場があることで成仏できない霊が集まって余計に成仏できないとなると本末転倒です。 お坊様や和尚様ならどう考えるか教えてください。

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戦う意味とは?

先日、NHKで『戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜』という番組が放映されていました。 日中戦争、太平洋戦争の戦時下の動員に仏教自らも(当番組では対象を同派としていましたが、国民総動員法の元ですので宗派に関係はないと思います)戦争に加担してしまった、その実態を取材した内容でした。 77年前のはいえ、生々しい出来事の記憶です。 一方、日本史という仏教が伝来し、今日に至るまでの長い目で見たとき、お坊さんはある時、僧「兵」でもありました。また、信仰のため、民衆のため、中々アグレッシブな姿になる事もあったと思います。 私は、仏教については高校の教科書程度の知識しか持っていませんが、印象としては「穏やかな宗教」といったものです。 例えば、キリスト教やイスラームには「聖戦」という教義がありますよね。 では、仏教ないし仏教徒が「戦う」とき、戦いを「是」とする考え方はあるのでしょうか? もちろん、それぞれの事象の背景には「そうなる経緯」があります。ですので、一概には言えないと思いますが、こんな考え方、こんな教義があるというものがあれば、宗派関係なくご教示願いたいです。 あと、これは愚痴?ですが、いつも戦時下の鉄の供出にはがっかりします…お寺さんの鐘もさぞかし由緒があったろうに…。 お忙しい中とは思いますが、ご回答をよろしくお願い致します。

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ニュースに振り回されない方法

お忙しい中申し訳ございません。 タイトルの通り、最近の国際・政治関係のニュースに疲れを感じています。 最近は戦争等、不安になるニュースが多く、ネットで詳細を調べる事が多くなりました。 ネットは情報量が多いので、気になるニュース、関連情報と調べていくと、どんどん不安になります。 その上、コメントや動画等を見ると、この情報は嘘をついている、いやそれは陰謀論だ、と何が真実なのかわからなくなります。 色々調べた上で、最終的には「私には何が正解かわからない」と考え、不安になるだけならニュースを見ない方がいいとなるのですが、次は「日本人はお花畑」という言葉が頭を過ります。 このように、ニュースを見て調べ、疲れて見るのをやめてモヤモヤする、という日々を繰り返しています。 全く情報を見ないというのもどうかと思うので、ニュースは見た方が良いかと思うのですが、暗いニュースを見ても、不安にならずに前向きに過ごすには、どう情報と向き合えばいいのでしょうか。 色々調べたところで、結局何かが変わることもなく、変えられることもないとわかっているのですが、気になるニュースが目に入ると調べてしまいます。 情報から自分の答えを出す能力がない事が問題なのでしょうか。 そもそもネガティブなニュースを見ても前向きに、というのは難しいというか矛盾しているかもしれませんが、モヤモヤせずに前向きに考えられる方法、心構え等、ご教示いただければと思います。

有り難し有り難し 30
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ