水子供養
先程、水子供養へ行ってきました。
お話を聞いて
子供は女の子だったと言って下さいました。
和尚さんは赤ちゃんが見えるのでしょうか?
私達もなぜか女の子だと思っていたので
びっくりしました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
見えたのか、伝えたい何かをその表現に託したのか…
ご相談拝読しました。
水子供養をなされたのですね。亡き赤ちゃんに謹んでお悔やみ申し上げます。
女の子だと思っていたところで、供養の時に女の子だと言われてびっくりなされたのですね。そしてなぜだか気になったのですね。
基本的にはそう伝えられてあなたがもしも救われたのならば、他のお坊さんに聞き尋ねるよりもそのご供養で完結するのが良いとは思います。
でも、もしもあなたがびっくりしたと同時に喜びつつも、ふと感じる疑問をごまかせないのであればこのことを学びながら自分でも確かめていくと良いでしょう。
私もお坊さんですが、霊とか魂とか亡き命などは見えません。見えるという人のことも信じることはできません。
ですが私に見えなかったり信じられなかったりすることが他の人においてもそうであるとは断言はできません。
そのお坊さんが本当に見えたのか、あるいは見えなくともあなたに伝えたい何かがあってそれを「女の子だったのですよ」という表現に託したのかはわかりません。
いずれにしても大事なことは亡き命の思いを馳せることと、そのことを通して自分の命について考えていくことだと思います。
亡き命は見えずとも、亡き命から促されてあなたが感じる思いは確かめることができます。
不安や寂しさやモヤモヤや心配など、様々な思いを感じることでしょうが、どんな思いも大切なものです。
これからもその思いと共に歩んでいってくださいね。
それよりも。
まずは水子供養を否定するものではありません。
とても大切なことですから、そのことは供養されて良かったです。
ところで、その子が男であれ女であれ関係のないことです。
もし生まれてきたらということでしょうけど、それ以上に、なぜ、水子ということになったのかということです。
その原因と理由の方が問題であり、そのところをちゃんとしておかないと、又、二度と同じ事を繰り返さないと誓ってこそ、本当の供養が通じるということです。
質問者からのお礼
有難うございます。