自分の価値がわからなくなりました
こんにちわ。
36歳独身女性です。
彼氏は長いこといません。
家族との関係は良好でしたが、ここ最近変わりつつあります。
妹が出産し、初めての甥っ子ができました。
私は子供が苦手ですが、甥っ子の事はとても可愛くて愛しく思えました。
唯一そう思える甥っ子からは、全く懐かれず泣かれてばかりで少し悲しく感じていました。
でもたった一人の甥っ子、そして初めての育児で精神的にも弱い妹を何とか支えたいと思い、マメに差し入れを持って行ったり、仕事帰りに来て欲しいと言われれば手伝いに行ったりしました。
育児経験のない私にできる事は少ないですが、私なりに必死でした。
コロナでしばらく会えなくなり、自粛が緩和されやっと会いに行けた日の事。
楽しみに会いに行きましたがやっぱり甥っ子には泣かれてしまいました。
赤ちゃんなのでそれは仕方のない事なのですが、妹に他の人にここまで泣く事はないと、私にだけこんなだというような言われ方をされました。
差し入れも適当な扱いをされ、手伝えることだけをしました。
その時、妹や甥っ子の事を色々と考えて動いていた事が無意味に感じ、とても悲しくなりました。
私は昔から承認欲求が強いようで、認めてもらいたいと言う気持ちが強いみたいだと自分でも感じています。
今までもいくら頑張っても認めてもらえる事や、感謝してもらえる事は少なく、家族間でも妹より私には当たりが強い事も多々ありました。
じゃあありがたがってもらえる為にやっているのかと言われれば否定はできませんが、良かれと思ってやっているつもりではいます。
今、さすがに妹や甥っ子に会える気分にはなれず連絡も取ってませんが、もうすぐ甥っ子の誕生日なので何か送った方がいいのか等考えてしまって、なんかもう誰のために、誰も喜ばないのに認めてくれないのに相手のことばかり考えてる自分もいて辛いです。
きっかけは妹でしたが、基本的に誰からの扱いはいつもこうです。
私にはこの先、親身になっても捨て身になっても誰からも心配もされない気にかけてももらえない人生を送るのでしょうか。
コロナ禍で気晴らしにも行けず、自分の価値を見失いかけています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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反対給付を求めない。
ご質問拝読いたしました。
お気持ちはわからなくも、
ありません。
妹さん、甥子さんのために、
一生懸命に強力して
いらっしゃいますよね。
でも素っ気ない。むしろ、
甥子さんは逆に泣かれる。
虚しくなりますよね。
愚僧も昔から神頼みに、
神社に行って
お願いごとをして、
お賽銭を入れる。
大枚はたいたのだから、
叶わないはずがない。
と思ったのですが、
願いは叶いませんでした。
ガッカリしましたよ。
お賽銭奮発したのに、
神も仏もあるものかと、
思いました。
何故でしょうか?
反対給付を求めていたからです。
何かをしたのだから、
何かをしてもらって当然だと、
思っていたからなんですよ。
反対給付は、
御利益ばかりではありませんよ。
してやったと思うから、
御礼を言われないと不快になる。
合流しようとする車に
道を譲ったとします。
御礼に手を挙げなかった、
ハザードを出さなかった、
イライラ、不快になることが、
あります。
御礼をするという反対給付、
見返りを求めた時点で、
これはもうすでに、
善意とは言い難いのでは
ないでしょうか?
御礼を言われようが、
言われまいが、
そんなことはどうでもいいのです。
そうしたからそうしただけです。
だからそれでいいのです。
相手がどう考えて、
どう行動するかは、
相手任せですよ。
神仏への自分勝手な祈願は
やめました。
日々御加護をいただいているので、
報恩感謝の御礼を
させていただく。
どう生きるかは、
自助努力ですよ。
運は天に任せます。
人のお世話を
させていただくだけで、
そんな自分がいることが、
ありがたいのでは、
ないでしょうか?
余裕がなければ、
人のお世話はできませんからね。
愚僧がこうして、
ご相談に乗らせていただくこと、
それ自体が感謝ですよ。
もちろん反対給付なんか、
求めるはずもありません。
お幸せを祈っていますよ。
何かを他の人にしてあげると、見返りを求めるのが人間です。それは自然な心の成り行きですから、心配されることはありません。しかし、見返りと言っても金品ではなく感謝の言葉だけでいいと思っても報われないこともあります。仏教には布施行というものがあります。布施行は感謝の心を金品で表すのですが、見返りは求めません。まゆさんも何かを他の人にするときに布施行と思い見返りを期待しないで、逆にしてあげられる自分に満足出来れば、見返りなどなくても豊かな気持ちになれるのではないでしょうか。いろいろして上がられるのは、健康でそれなりにお金が自由になるからですし、お金があっても自分のためしか使わない人もあるのですから、他の人にして何かしてあげたいと思えることは素敵なことです。確かにして上げるばかりで、感謝もされなければ長続きしないこともあるでしょう。感謝されない時はお節介だったり、相手のニーズに合っていないことも考えられますし、することで、相手を傷つけてしまうことすらあることも念頭に置いてみて下さい。それでも布施行を積んで行けば必ずそれは後々の自分に何らかの形で返ってきます。それを糧に他の人のために何かしたいを思える自分に感謝しつつ、行を積んでみませんか。
質問者からのお礼
花山熊吉さま
お言葉を下さり、ありがとうございました。
反対給付、その通りだと思いました。
私はこんなに頑張ってるのに、こんなにしてあげてるのにと思っていました。
自分がしたいからする、これでいいんだと思えるようにこれから動いていけるように頑張ってみたいと思います。
例えもとてもわかりやすくて、スッと入ってきました。
ハザードの例えも私は運転しませんが、運転していたらきっとムッとしてしまうタイプだと思いました。
こうあって当たり前と思う癖をまずやめないといけないですね。
優しいお言葉、本当にありがとうございました。
お名前の変換を間違えてしまい、大変失礼しました。
花山雲吉様、ありがとうございました。