嫌いな人を意識してしまう
タイトル通りなのですが、嫌いな人を意識してしまいます。
長文になるのですが、よければご助言いただけると凄く心の助けになります。
1年生の中から知り合ってはいたのですが、2年間はクラスが違うかったのと、なんとなく気が合わなさそうで苦手だったので、トラブルや余計なストレスを避けるため、必要最低限しか関わらないようにしていました。
しかし、この最後の年に、クラスメイトでなってしまいました。
私の友人とも仲が良かったので、頑張って関わり合ってみようと歩み寄る努力はしたつもりです。
ただ第一印象がかなり(自分の中で)悪かったのもあるのか、むしろ関わって相手を知れば知るほど嫌悪感が増していきます。
極力関わりたくないのが本音ですが、なんのご縁なのか、席も前後でグループワークや班活動等も全部一緒、しかも同じグループ(たち悪く3人組)なので、もはやほぼ毎日喋り関わっています。
普段はいくら気の合わない人だからだといって、粗末な態度をとるのは人としてどうかと思うので、極力柔らかい雰囲気になるようは努めています。
が、やはり距離を置きたいという気持ちが無意識に出てしまって、避けてしまうことがあります……。(無視とかではないのですが、休み時間など必要以上関わりたいとは思いません)
他の人がしても大してイライラしない・気にしないことでも、その人だとイライラしてしまいます。
いくら嫌いな人であっても、不快な想いをさせてはいけないという理性と、距離を置きたい(喋りたくない)という感情が、葛藤していて自分でも自分の心がよく分からないです。
でも社会にでたり、進学をすれば、同じように気の合わない(正直関わりたくない)人との出会いも、これ以上にたくさんあるのだろうと思います。
このまま避けっぱなしでは、今までと同じだとも思います。自分の心を少しでも成長させたいです。
こんな未熟な私ですが、どうかアドバイスをお願いいたします。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
些細なことで傷ついてしまう 心に余裕を持てないことがある 周囲の目を極度に気にしてしまう 自分の優しさは偽善なのかと考えてしまう
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
好きの反対は、嫌いではなく無関心。
おはようございます。
なるほど。人間ですからどうしても気が合う、合わないということはあります。
お釈迦様も『怨憎会苦(おんぞうえく)』ということをお説きになりました。
「会いたくない人に会わなくてはならない苦しみが、この世にはあるよ」ということです。
さてさて、貴方はお友達の行動にイライラすることがあるとのことですね。
その上で、自分の心を成長させたいという素晴らしい志を持っておられます。
要は、寛容になりたいということではないでしょうか?
お釈迦様は法華経という経典の中で、善知識(ぜんちしき)の存在をお説きになられました。その上で、お釈迦様の悪口を言いふらし、お釈迦様を殺害しようとまで企んだ方を「彼は私の善知識、良い友人なのだ」とおっしゃいました。
貴方は自分が合わないと思っている友人からたくさんの事を今も学んでいるようですね。
「イライラする自分、器の小さい自分、寛容になれない自分、このままではいけない」
そのことを教えてくれる人を仏教では善知識と申します。
イライラする度、思い出してください。
「この人は、私の善知識なのだ」と。
今のあなたのまま、伸び伸びと成長されることを期待しております。
合掌
おっしゃる通り、将来の修行だと思いましょう。
今まさに
あなたは成長中なのだろうと思います。
あなた自身も客観的に
そう実感しているのではないですか?
その人自身や
その人と会っている時のあなた自身を
客観的に観察してみるのも修行になると思いますよ。
質問者からのお礼
和田隆恩さま
丁寧なご助言ありがとうございます。
確かにまだまだ未熟な私は、体と共に心も成長させる時期なんですよね。
改めて認識を深めることができました。人として、もっと豊かになれるよう、ゆっくり、でも客観的に自分を見て、成長していきたいなと思います。
前透さま
丁寧なご助言ありがとうございます。
確かに彼女から、自分の行動や気持ちのあり方・考え方について、改めて考えさせられることが増えました。
仏教では善知識というのですね……。胸中に収めておこうと思います。
お釈迦様は本当に多くの事を説いていらっしゃるのだと、改めて実感いたしました。
自分らしくありながらも、寛容な心を持てるよう、少しずつ成長していきたいです。