親と子の命。
両親のことが好きです。でも、憎いと思うことがあります。
正直、親の勝手で生まれてきた命です。
人の命が互いに量りしれないのなら、親が先だろうと子が先だろうと誰かが悲しみに打ちひしがれるんです。
親は子に愛と絶望を与えるイキモノです。
以前の問いで、両親より1日でも長く生きることを8年前に決めたと言いました。
それは、両親を悲しませたくないからです。
では、親は子を悲しませていいのか?
たしかに事故や自殺などなければ人の命は順番かもしれない。
でも、そんなのずるいですよ。
だって子にとって親は、親にとって子が大切なのと同じくらい大切だからです。
自分の考えは間違っているでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
気付かされました
たまさま
なごみ庵の浦上哲也です。
今回のご質問を読んで、ハッとしました。
「親より1日でも長生きするのが最大の親孝行」という世間一般の言葉をその通りだと思い、1つの方向からしか見ていない自分に気付かされたからです。
仰る通り、親が亡くなったら子は嘆き悲しみます。
「子どもを失った親の嘆きはより深いものだ」とも言いますが、悲しみは数値化して比べることは出来ません。たまさんの考えは、間違っていないと思います。大切なことに気付かせて頂き、有り難うございました。
ちょっと話は変わりますが、僧侶として人の死に立ち会うことが多いので、人はどうやって親しい方の死を受け入れているか考えてみました。
ひとつは時間です。時が過ぎれば全てが解決するとは言えませんが、やはり時間は偉大だな、と思います。
もうひとつは年齢です。やはり亡くなった方の年齢は、遺された者にとって影響が大きいと思います。若くして亡くなれば遺族に悔いが残るでしょうし、90歳100歳を超えるご長寿なら「よく頑張ってくれた」という感覚になりやすいと思います。
あとひとつは、どれだけのことをしてあげられたかです。
充分に介護や看護をしてあげられた方は、悲しみの中にも受け入れる心が整いやすいように感じます。反対に、短期間の闘病や突然死の場合、受け入れるのに時間がかかるように思います。
たまさんが聞きたいのは、こういった理屈ではないと思います。でも考えるヒントになるかもしれないと思い、記してみました。
人が亡くなれば、誰かが悲しい思いをする。
そして人は生まれれば、必ず亡くならねばならない。
たまさんは今、大切なことに向き合っているのではないかと、私は感じています。
頭の悪いワシには理解できませんが・・・?
たまさん。残念ながら、あなたの質問の内容が理解できません。他の僧侶より賢くありませんから。
もし、親しい人が亡くなったとき悲しいか?という質問でしたら、ワシは答えられません。その時にならないと。「屏風の虎」という一休頓智話と同じで虎を屏風から追い出さないと捕まえられないように実際死んでみないと悲しいかどうかはわかりません。
ワシも親ではありませんが親しい人を昨年と今年と亡くしました。昨年は悲しいかと思いきやホッとしました。でも今年は2週間しか経ってないかもしれませんが未だに携帯電話の履歴を見るたびに悲しいです。胸が苦しいとはこのことかと思うほど苦しいです。2人とも急死なので特にです。
頭で考えるあなた。思考は経験を超えられないということを経験したら本当に解る日が来ると思います。20歳代まだ表に出れますよ。
ワシもアニメオタク歴史オタクで引っ込み思案でいじめられっこでムッツリで小太り、禿(坊主ともいう)、気が弱くて、長いもの強いものにまかれてしまいます。味方になってきてくれた人も相次いで亡くしました。何やよく考えたら生きてる価値ないやんか?たまさんどうしたらいいでしょうか?教えてください。頭の悪いワシには分からんて。
回答になるつもりが相談になってしまいました。すいません。
親と子 互いの しあわせ
「子にとって親は、親にとって子が大切なのと同じくらい大切」
たま様は、自身の13年間の苦しみと共に、それでも慈愛を持って接して下さり、唯一の味方であるご両親を、いつの日か失う時を恐れているのでしょうか?
「親の勝手で生まれてきた命」と言われますが、ご両親ふたりの愛の証がたま様ではないのですか?
ご両親は、たま様が自分たちより1日でも長く生きることを望んでいるだけでしょうか?
親が子に望むのは、「しあわせ」になって欲しい、小さくてもいいから「しあわせ」な人生を歩んで欲しい、その点に尽きると思います。
「しあわせ」とは「幸せ」・「幸福」とも書きますが、本来の語源は「仕合わせ」仕えるものに合う→めぐり合わせや人生を変える機会という意味です。
あなたが苦しんできた13年間、ほんの少しでもあなたに手を差し伸べてくれた人はいませんでしたか?あなた自身が「有り難いなあ」と思った事はありませんでしたか?
それこそが「仕合わせ」です。
これまでの人生の半分は苦しみの連続だったかもしれない。でもご両親以外でチョットだけ助けてくれた人がいたはずですし、今後の人生どんな機会があるかも判りません。
たま様とご両親、自死や災害でなくともみんないつかは死が訪れます。
愛する人との死別も避けることは出来ません。
自らの死に向き合う時、絶望もいっぱいあったが「しあわせ」だったかな、と思える生涯を送る資格がたま様にもあるはずです。
とりとめが無くてすいません。たま様のご質問の回答になってないかもしれませんが、絶望の中の小さな希望に気付いてほしいのです。
仏の顔も三種
仏の顔も三度、ではなく「仏の顔も三種類」です。
①不動明王などの怒った顔した仏さまも、②やさしい顔した仏さまも、愛は愛なんです。
アナタが愛だと気づけないことが問題なのです。
こう考えてください。
「アナタも含め、世界中の9割以上の人が愛情表現のレッスン中である」と。
あなたの親は厳しい事いうのでしょう。厳しい態度するのでしょう。分かってくれんのでしょう。だからあなたにとっては悲しい親でしかない。
あなたがその両面の顔のどちらも愛であると思って受け止めることです。
③もう一つアナタが観なければいけない仏の顔があります。
それは明るくも暗くもない顔。
自分にとって良くもなく悪くもない顔。
ぽぢティブでもねがティブでもない顔。
一切精神の色づけなし、価値づけなしのそのまま、という真実の顔です。
まぁ、仏の顔はソレしかないですけどね。
貴女はいつも自分がいじめられたと、いう色を付けて、意味をつけて物事を受け止めています。
本当に大切なのは、そのままを受け止めることです。
脚色以前のそのものを受け止めることです。
どこに、そんなホトケの顔がありますかって?あなたの目の前の世界全てがそうですよ?
その景色は怒っても、笑ってもいないでしょう。
ネガティブでもポジティブでもないでしょう。
世界は笑っても悲しんでもいない。
そのまま、あなたの私見を加えずダイレクトに観ることです。
その仏の顔(これが禅でいう所の第一義=さとり=無私=法相)が観られればどこにあっても取り乱すことも、苦しむことも無いでしょう。
これは知識で分かったつもりでもダメです。
分からなければ参禅しにお越しください。地理的に遠ければ自己投資だと思ってメルマガ(有料♡)をご購読いただきメール問答で理解するまで求めてみてください。
質問者からのお礼
浦上哲也様、大熊範隆様、大鐵様、ご回答ありがとうございます。 皆様の回答を見て、自分はまだまだだなと感じました。いろいろ考え、行動したいと思います。 また何かあったら利用させて頂きます。
丹下覚元様、ご回答ありがとうございます。