人は生きているだけで尊いのか
自分は愚物です。
「例え傷ついてでも人との関わりを持ち続けて生きる方が素晴らしい」「何かを失ったとしても端から何も得られないよりずっとまし」近頃この様な価値観に触れることが多いです。昔から、そういったご縁に尽く逃げられる自分が情けなく、何だか追い詰められてる気分になります。元来それが私の理想の生き方でしたので、尚更それを無視できません。
また、悩みにも年齢に沿った次元があると思います。「恋人と上手くいかない」「仏教のここが解らない」「友人が羨ましい」「姑と上手くいかない」など、同年代の方は次のステージにどんどん進んでいるというのに、私の人生には何の発展もありませんでした。
というのも、私には知的なハンディキャップがあり、物事を記憶したり深く考えることが苦手です。これが対人関係でネックになっている上(軽蔑されるもしくは相手にされません)、勉強においてもなかなか知見を深められません。お陰で、私は「世間知らず」「取り柄がない」「思考力が無い」という評価をよく受けます。ごもっともだと思います。
自分が情けないです。薬や好きでもない煙草にすがってばかりです。
「他人との比較から煩悩や苦は生まれる」と仏教は説きますが、ならば自分より恵まれない立場の人と比較して「自分はまだましだ」と胸を撫で下ろすのも道にそぐわないのではないかと思います。その人はその人でちゃんと救われるべきです。
人はただ生きているだけでも尊いとは本当でしょうか。私にはそうは思えません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「生きているだけで尊い」と誰かに決められるものではない
「尊い」とはどういうことでしょうか。考えると難しいですよね。
でもそれは他人から与えられるものであったり、他人から認定されるものではないと私は思います。
お釈迦様の教えに
「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」
(スッタニパータ136、中村 元訳)
とあります。ここでの「バラモン」は「尊い人」と解釈することができると思います。
「行為」において尊いとは「〇〇ができるから」とか「〇〇したから」尊いということではないと思います。
行為(業)には身・口・意の三つがあります。意業(心のはたらき)によって言動が起こります。
何が言いたいかと言うと、主体的な行為や態度によって尊さは自らに見出されるということです。
>「世間知らず」「取り柄がない」「思考力が無い」という評価をよく受けます
というのは大変お辛い事とは思いますが、それは他者の認定するものです。
それらを根拠とするのでなく、それらに対する自らの主体的な行為・意欲において人は自らに尊さを感得できるのではないでしょうか。
しかし同時に、それは自分の力だけでは成し難いこともあるのかもしれません。その自らの主体性を支える教えに出会ってこその感得でもあるのでしょう。
他者認定には振り回され、自己認定には虚しさが付きまといます。尊さを見出させてくれる本当に尊い教えに出会いたいものです。
質問者からのお礼
吉武文法さま
ご回答ありがとうございます。
今すぐに気付きを言語化することは難しいですが、頂いたお言葉をこれからじっくり噛み砕いていきたいです。
まずは、心を込めつつ簡単に行えるような慈善事業の手助けをしてみようと思います。
ありがとうございました。