人間関係の信頼
こんにちは。お世話になっております。
僕は人を信頼することが出来ず、将来がとても不安です。もう社会人になろうというのに、情けないです。
人が信じられない原因は、中学生の時にいじめに遭ったからだと思います。アドラー心理学ではこの考え方は言い訳に過ぎないことは百も承知ですが、やはり過去の影響力は大きい。人を信じたい。だけど信じられない。信じるのが怖い?そもそも、信じるって何ですか?
本当に信じたい。しかし、どうしても疑う傾向があります。「いつもニコニコしているが、内心俺をバカにしてるんじゃないか?」と思ったり、親切なことをされても、「そうやって弱い奴を助けることで、優越感を覚えているんだろ」と思ってしまいます。マジでこう思ってしまう自分が嫌で仕方ありません。
友人と話をする時でさえ、表面上は笑っていますが、今すぐここから逃げ出したいと思っています。
友人なのに、出来ることなら関わりたくないと思ってしまいます。
嫌われたくないという気持ちがあるのもたしかです。過去のいじめは何か自分が相手から嫌われるようなことをしたからだと思っていて、そのいじめはとても苦痛で苦痛で仕方なく、二度と受けたくないほどです。
僕は人間関係をおそらく、「いじめられないため」だけに形成しています。それもそれでとても苦痛です。
どうしたら普通の人になれるのか分かりません。僕は明らかに異常です。正常ではありません。人と向き合うだけで緊張するし、声が震える。友人達がなぜあれほど人と楽しそうに話せるのか理解できません。
リラックスできる瞬間は、一人で家にいる時だけです。それ以外は人間がうじゃうじゃいるのでどこに行ってもリラックス出来ず、いっそ死にたいとさえ思ってしまいます。まあ、死んでも仕方ありませんが......。
もう僕には普通の人の感覚が分かりませんよ........。僕はこれからどう生きていけばいいんでしょうか?アドバイスをお願いします。
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
普通の人ではなく、本当の自分になる
斉木さん
こんにちは
拝読させていただきました。
過去の経験から、人を信頼できず、不安な日々を過ごされていることお察しします。辛いですね。
確かに、中学生のときの経験が、要因になっているのかもしれません。ただ、それだけかどうかはわかりません。
“そもそも、信じるって何?” 難しいですね。信じるって、通常はまず自分自身を信じることでしょうか・・・ただ、これも場合によって、簡単ではないと思います。
人は結局、人との関係性の社会に中で生きていますので、他者との関係、他者を信じ、相談するということになるのだと思います。しかし、重要なことは、自分自身をしっかりと持った中で、他者との関係や信頼が生まれてくるのだと思いますよ。
「普通」というのが気になります。おそらく、斉木さんの中で、普通という枠、定義があるのだと思いますが、これがなかなかのクセモノではないでしょうか。多くの方が、様々な枠を決め、その枠に無理やり自分を押し込めようとしている気がします。真面目で繊細であるほど、その傾向が強いのかもしれません。今や多様性、なんでもあり(犯罪や人の嫌がることは除き)の時代を迎えていると思われます。どうぞ、普通という枠を外し、斉木さんの心の声に従い、まずはリラックスでき、楽しいと思える日々を暮らしてください。その先に、自分は何に興味があって、社会人としてどのように社会に貢献できるのかが見えてくるのかもしれません。
普通の人になる必要はないのではないでしょうか?その時代時代の常識を持った教養人である必要はあると思いますが、AIやロボット化が進む時代において、その他大勢の人と同じ(普通?)であることが良いとは限らないと思われます。
斉木さんが異常とは私には思えませんよ。世の中にはいろんな人がいます、正常か異常かの判断は難しいですし、むしろ、人と情報が過密化している都市部の生活やその中で暮らしている人の方が、異常なのではないでしょうか。
他者との関係や信じるとは?と考えるよりも、自分の目指す道を探究し行動することが先な気がします。自分一人でいるもよし、比較的、人と関わることが少ない職を探すもよし、自分自身がワクワクするようなことを見つける、自分自身の特性をもっともっと探ってみるなど。それは、斉木さんの心のなかにあるはずです。
応援しています。
一つの参考となれば幸いです。
時間をかけて…
拝読させていただきました、慈陽院の平本と申します。
人を信頼することができずにお悩みになっているのですね。
まず結論から申し上げますと、恐らく斉木さんは、過去のいじめによって人間関係にトラウマが発生してしまった可能性があります。
例えば親の車に乗車中に大事故に巻き込まれたとします。運良く誰も怪我をしなかったが、これ以降車に乗ろうとすると、同じような事故が起こるのではないか。次は、死ぬのではないか。という極度の不安が襲いかかる場合があります。
恐らくこれと似たような感じで、人に対して一時的に極度に信頼ができなくなってしまっただけではないかと思います。
トラウマの解消は、時間をかけて無理をしない範囲でゆっくり慣らしていく感じになります。
あと人に害を与える人の特徴に「少しでも嫌な気持ちにさせる人」というのは、少し注意が必要です。
イジメや嫌がらせをする人の特徴の一つに、「人の気持ちを読む力が弱い」と言われています。イジメをしたら相手がどういう気持になるか分からないのでやってしまうようです。
しかし不快な気持ちにさせない人は、人の気持ちを読む力があるので、恐らく陰口をたたくようなことは、まずやらないと思いますよ。もし友達が斉木さんの陰口をたたいてしまったら、今度は、斉木さんの友達も陰口を叩かれる危険性があります。よほど皆が嫌う人でないかぎり陰口を言われることは、ないと思いますよ。
ポイントとしては、少しでも不快に感じる言動をしてきた相手には、注意です。そして不快な言動をしてこない人には、少しずつ無理をしない範囲で接して時間をかけていけば、少しずつ信頼、信じる気持ちがわいてくると思いますよ。
あまり他人と比べずにのんびり自分のペースで接してみてはどうでしょうか。
あとトラウマを思い出して辛い気持ちをどうにかしたいなど、何かありましたら私でもご相談いただければと思います。
追記
まず優しい人は、人の痛みが分かり、人を思う気持ちを持った人です。
陰口をたたく人や他人の苦しむ姿を喜ぶ人は、優しいふりをしているだけの最低最悪な人ですよ。
あと世の中には、たしかに人の苦しむ姿を喜ぶサディスト系のサイコパスがいます。
そういう人を見極めたいなら、私利私欲を捨てて人を思いやる行為ができるかどうかと言われています。
質問者からのお礼
慧徳様、回答ありがとうございます。
いじめだけが原因ではないのはそうだと思います。家庭環境や思考なども確実に原因になっています。しかし、やはり核にあるのはいじめです。家庭環境は違うにしても、思考は当時のいじめによって、「人間なんてこんなもんだよ」「どうせ裏切られるだけだ」など、人間に対する観念が固定化してしまい、今のような人間観になっています。余談ですが、僕が真宗の教えにハマったのも、人間の醜さをありのままに示した人間観に惹かれたからです。
普通...。普遍的?とも思いますが、ほとんどの人が持っているもの、が僕の普遍の基準です。例えば、ほとんどの人は家を持っていますし、ほとんどの人は信頼できる人が一人や二人はいる。
そんな感じでしょうか。しかし、今書いている途中に思いましたが、もしかしたら僕は貪欲なのかもしれませんね。普遍じゃないと言いながら、家を保有しています。家がない人もいるわけです。そう考えると、信頼できる人がいなくてもそんなにおかしいことではない。
ですが、自らの成長や社会で生活するため、一人でも信頼できる友人を作りたいと思っています。ありがとうございました。
平本優眞様、回答ありがとうございます。
いじめを行っている人は想像力がない、僕はあまりそうは思いませんでした。そのくらいの想像力は彼らにもあると思いますよ。ただ彼らは人の嫌がることを分かった上でいじめを行っているのです。
例えば、陰口を叩く人は、優しいんですよ。表面上は。相手がどんなことをして喜ぶのか分かっている。もちろん、嫌がることも。その上で関わってくるんです。だから人を信じられない。
人のことを観察し、少しでも変わったところがあれば、陰口を叩く。それがだんだん全体に広がって孤立。事実ならまだしも、彼らは巧みな嘘をつく。だからクラス全体が信じる。
不快な言動をしてくる人は、さほど怖い存在ではありません。まず本物ではないと分かるからです。一番怖いのは愉快な言動をしてくる人です。それが本当に好い人なのか、はたまたサイコパスなのか判断のしようがない。そこが難しい問題です。
まずは今の感情と向き合い、頑張っていきます。ありがとうございました。
追記回答ありがとうございます。
優しい人は他人が悲しむ時に悲しんでくれる人、サイコパスは優しいふりをする偽善者。そこは僕も分かります。
しかし、この善人と偽善者を見極める方法がない。私利私欲を捨てて思いやる行為をすることで、なぜ善人や偽善者を見極めることができるのか分かりません。平本様が実際に見極められているのですか?
すみませんが僕はそれは不可能かと思います。 善人、偽善者を見極めるのは、それこそ、他人の心を透視するしかないのではないでしょうか。ですが、そんな能力は人間にはない。
だから結局信じるしかないようです。信じた結果、裏切られた。それは仕方ない。一時的にでも信じられた自分を褒めてやろう、それでも僕は信じることを諦めない。そういう受け止め方で生きていきます。様々なことを気付かせていただき、ありがとうございます。