自分の意思を尊重してきた結果社会性がない
いつも様々な質問、回答を拝見しております。
早速の質問ですが、私は10代のころより自身の自由意志に価値を置いて生活してきました。
一言で言うと「周りに流されない」「我が道を行く」というやつです。ポリシーとも言えるかと思います。
他者が自分をどう思うかより自分がどうありたいかを価値基準とし、決断の柱にしてきました。
とはいえ、元来基本的には他者との関わりは好きで温厚なほうでもあると思うので、学生時分までは周囲との軋轢もなく過ごしてきました。
しかし、社会人になってからは周囲との考え方が合わなかったり、納得できないまま仕事をすることが増え、自分の意思が反映されない生活にストレスを感じています。
長い物に巻かれるのが当たり前の現代社会で、私のような社会性のない人間はつまはじき者で、会社でも疎まれているように思います。
組織人として生きていくのはどうも難しそうです。
私の考え方が間違っていたとは思っていませんが、少しは自分よりも他者の考えに価値を置き、社会性を磨くべきだったのもしれないと、してもしようがない後悔に苛まれることがあります。
自分の意思を強く持つべきだとは今も思いますが、それを貫き社会生活の中で苦しんでいるのも自分です。
このように生きてきた私が、集団の中で生きていくための心構えについて、心に留めるべき仏さまのお教えはありますでしょうか。
とりとめのない内容ですが、こんな私にぜひ仏教的な目線でも、お坊さま個人の目線でも、ご意見いただけると幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
喫茶去
ご相談ありがとうございます。
「喫茶去」
まぁ、お茶でも飲みましょう。
>このように生きてきた私が
今まで築き上げたものにこだわる必要はありません。
変わる必要があると思うのなら、今からでも遅くはありません。
変わるか変わらないかは、自分が変えるか変えないかです。
どちらにしても堂々と生きていいのだと思います。
今まで築きあげたものにこだわらなくても、必要なものは自分の身にしみついていますから、こだわりの部分を捨てても問題はありませんし、今までの人生が無駄になるものではありません。
こだわりを捨てた分だけ新しいものを取り入れることができるんです。
変わることが必要かどうか…
変わるのは今からでも遅くはありません。
まずは、一服して考えましょう。
和して…
拝読させていただきました、慈陽院の平本と申します。
仏教の言葉ではないのですが、故事、ことわざに「和して同ぜず」という言葉があります。
和して同ぜずとは、「人と協調することは大事だが、道理や信念を忘れてまで人に合わせるようなことは決してしない」という意味になります。
協調をした方が良いときは、協調し、自分の信念を大きく曲げてしまう場合には、協調をしなくても良いと思います。
時には、折れてみたり、時には、信念を貫いてみたり、色々と試しながら、やっていけば良いのではないでしょうか。
あと私が組織の中で生きるときの信念の一つに、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」という考えも組織が一つの目標に向かって進むときに大事なことだと思います。
個と組織というのは、なかなか難しい側面がありますが、色々と考えてみてはどうでしょうか。
またお悩みごとがありましたら、私でもhasunohaでもご相談お待ちしております。
質問者からのお礼
眼鏡和尚さま
お返事ありがとうございます。
アドバイスいただいたとおり、一旦頭の中をゼロにして考えてみると、自分がどうあるべきかという考えに自縄自縛になっていたのかもしれないと思いました。
おっしゃる通り、こだわり過ぎず自然体で見つめ直そうと思います。
ありがとうございました。
平本さま
お返事ありがとうございます。
「和して同ぜず」という言葉、非常にストンと入ってきました。大変理想的な考え方で、出会えて良かったと思える言葉です。
あくまで自然体で、折れたり曲がったり突っ張ったり、眼鏡和尚さまもおっしゃる通りこだわらずにいこうと思います。
不勉強な私に素晴らしい言葉を教えてくださり、ありがとうございました。